調査報告 体験型ツアー演劇『地中の羽化、百億の波の果て』

(報告:寺澤亜彩加、藤城光 PDF版はこちら

はじめに

今年のしらみずアーツキャンプにおいてテーマとなったのは、「やっちき」という伝承芸能でした。今まであまり研究されてこなかった「やっちき」。中でも炭鉱町における「やっちき」の記録は、草野日出雄さんの『赤井嶽薬師と「やっちき」考』に、岡崎マサさんの証言が残るくらいなものでした。

 

  • 大正八年頃から暗がりの道をたどって白水阿弥陀堂に差しかかると、十数人の坑夫たちは、阿弥陀堂の境内でひと休みし、カンテラの灯を中央にして『やっちき』を踊ることたびたびだった
  • 踊ったのは境内ばかりではなく、坑口近くの広っぱで、月の明かりを頼りに踊った
  • 先山(坑内の採炭夫)たちは『炭坑で事故死した人々の供養に踊るのだ。』といっていた

 

今年度は、この岡崎マサさんの証言を出発点に「しらみずアーツキャンプ」のメンバーである、江尻浩二郎、寺澤亜彩加、藤城光による「やっちき」リサーチチームが組まれました。その後江尻氏は、九州や北海道などにも赴き、2020年1月19日に開催された「しらみず文化大学」において、「ヤッチキ学概論」という講義を行い、その後もやっちきの広域的な調査を続けています。(江尻の調査については、こちらを参照)

 

一方の私たち(寺澤・藤城)は、岡崎マサさんの証言の中にある「事故死した人々の供養に踊るのだ」という部分に興味を抱き、白水地区に絞った「やっちき」のリサーチに集中することとしました。

何故、娯楽性の高い「やっちき」が供養と結びついたのか、ここで踊られた「やっちき」はどんな踊りなのか、炭鉱町の地域性は「やっちき」を踊る身体性に影響していたのか、など、疑問の数々が溢れ始め、私たちは動き出しました。その「やっちき」という窓を通してこの地域を見つめた時、かつての白水の人々が持っていた心情の新たな面が見えてくるようにも思いました。

半年以上にわたり、時間を見つけては白水に足を運び、歩き回り、聞き取りや調査を進めました。リサーチでは「やっちき」の話と
ともに、炭鉱が栄えた時代の様々なお話、当時の風景、心情などを伺ったり、また、場所がもつ記憶のリサーチ、地質的な観点での調査や石炭そのものを調べるなど、地域性を探る調査も進めていきました。

 

 

そのリサーチ成果として企画されたのが、phyton (寺澤亜彩加× 藤城光)による「体験型ツアー演劇」です。

いわき市役所を始発駅としバスに乗り、海を迂回したのち、旧産炭地白水地区にたどり着くルートで体験型ツアー演劇を開催し、石炭が数千万年前に植物だった時代から、石炭産業で賑わっていた時代を通り抜け、遥か何億年もの彼方先の未来までを包括した時間軸の中で、「生」と「死」、そして、命そのものに対峙する場を作りあげる。そのような体験型ツアー演劇の上演を共同制作し、それをリサーチのアウトプットとすることを選択したのでした。

 

この地域の深層に横たわる記憶や感情の襞を掬い上げることによって、過去の記憶を未来に繋ぐだけでなく、東日本大震災や原発事故を経験し、災害が増加する現在を生きる私たちにとっても、大いに学びや気づきを与えてくれるものなのではないか、という直観から、作品として残すという選択肢が浮かび上がりました。

 

ここ、福島県浜通りにはかつて、双葉郡富岡町から茨城県北部まで広がる常磐炭田が存在しました。首都圏に近い炭田地帯である常磐炭田は、北九州の石炭が西南戦争の影響で不足した明治初期に本格的な開発が始まり、最盛期には、日本三大炭田の一つとして栄えました。

しかし、エネルギーの主体が安価な石油へと転換する中で、常磐炭田全ての炭鉱が閉山となりました。浜通りはその後も首都圏のエネルギー供給地としてあり続け、2011年に爆発事故を起こした福島第一原発もまた、その延長線上にあります。そして今も、常磐炭田があった一帯の地下は「穴だらけ」なのです。

 

その、常磐炭田の発祥の地が、いわき市の白水町にあります。黒いダイヤを掘り出そうと、様々な土地から何千人もの人が移り住み、炭鉱町として賑わっていた白水町。そこでは、銀座と呼ばれる繁華街が賑わい、多くの穴が掘られました。開発に連れ落盤事故や坑内火災など、石炭を掘る坑内での事故が多発し、多くの方々が産業や生活を支えるエネルギーの採取と引き換えに命を落としてきた記憶も残っています。

 

いわば歴史に翻弄され社会の不条理を受け入れてきたとも言えるこの地域の姿は、人間というものはどんな生き物なのか、現在というものが何によって形作られているのかを考えさせるものであり、一つ一つの人生、生活、人間の営みが凝縮された姿でもあるように、私たちは感じました。

それは、現在と地続きにある姿であり、白水をリサーチするということは、自分たちの地域の記憶を知ることでもあると同時に、私たちのこれからを知り、考えることにも繋がっていると思います。そして、炭鉱町の記憶を話してくださる方々から託される言葉の数々は、命の重みそのものであり、何か大事な示唆をくれているようにも感じました。

 

だからこそ、「やっちき」を通したこの地域の記憶を、作品の形で上演し、上演記録を残し、冊子としてリサーチ内容をまとめ、より多くの方に手渡していきたい、と私たちは思ったのです。

 

 

人への調査

白水町におけるリサーチは、前年(2018年度)の「しらみずアーツキャンプ」で面識を持っていた川平集会所の方々、それから、藤城が2018年度の作品制作において聞き取りを続けていた鈴木利夫さんの元から始まっていきました。そこから、「やっちき」や炭鉱の時代のことについて知っていそうな方々を次々と訪ね歩き、聞き取りや調査を重ねていきました。

 

「やっちき」を軸ととすることで出てくる炭鉱時代の生き生きとした話も多く、その度に私たちは「何を調査の軸とするか」の重要性に気づかされました。ここが炭鉱町であった頃の地域が持っていた空気感、炭鉱労働がどのようなものであったか、生活がどのようなものであったか、話し手がどのような思いを持っていたか、血の通った記憶が懐に飛び込んでくるようでもありました。

「あったかい夜になっと、若い人らなんもたのしみもねえから、こういう広っぱさきてやっちきはじまんだ」
「ガンガンで石炭燃して、煙が出なくなったら家の中に持ってって煮炊きに使うんだ」
「そこの炭鉱はフレックス制だったしさほど暑くもなかったからいい環境だったんだ、だけどあっちの炭鉱は暑くて暑くて、ホースで水かけられながら働いててあれはいやだったー」
「夜になると切った張ったでおっかねえから子どもは外には出るなと言われた」
「石炭運ぶ汽車に乗せてもらってた」
「共同風呂で男も女も一緒に入ってた」
「坑内じゃみんな褌いっちょだからすーぐ仲良くなっちまー」

というような炭鉱労働や炭鉱町の日常、炭鉱ならではの祭り、子供の頃の話、流れ者たちを仕切っていた輩の話、芸能の達者な人がこの地域は多かったという話、炭鉱以前の地域の話など、リサーチのたびに町の印象が深まっていきました。

 

また、炭鉱労働というものがあたりまえに死と隣り合わせであること、同じ白水地区内でも、炭鉱への思いは、性別や家族構成、場所、立場、所属会社によりそれぞれに異なり、一人の人間の中でも複雑な思いが混在していることも浮かび上がってきました。元々いた農家や地主の方たちと全国から集められた労働者たちの間にある、交じり合いながら反発し合う地域感情などにも触れることとなりました。

しかし、重い内容の話であっても、それらを話してくれる人々はどこかカラッとしていて、こちらを笑わせてくるような陽気さを携えており、そんな彼らに魅入られるように、日々が過ぎていきました。

 

場所の調査

同時に、話の中に登場してくる場所や、気になった場所についての調査聞き取りを行いました。

川平の炭鉱住宅の長屋跡、新長屋跡、グラウンド跡、浪花炭鉱跡、滑津トンネル(小さいトンネルと呼ばれていた)、薬師如来、白水軽便鉄道のトンネル跡、下入山の地蔵尊と無縁之霊供養碑、昔使われていた野焼きの火葬場跡、矢郷炭鉱の坑口と空気坑跡、寿炭鉱第一坑/第二斜坑跡、および寿炭鉱の山神社跡、胡桃下稲荷神社、吊るしの観音、不動山トンネル、高野山の賽の河原、八角堂跡、白水阿弥陀堂など。

すでに藪に覆われて判別がつかないものや、地元の方にもあまり知られていない場所もありました。

 

白水以外の場所としては、妙覚寺、瑞芳寺、性源寺、町田坑跡、薄磯海岸、沼の内と薄磯の間に位置してあったもう一つの賽の河原など、関連する場所にも足を運びながら、リサーチは進んでいきました。

 

何か突拍子もなく、地元の人が案内してくださったり、そこに出会いや発見があった時、場所が私たちを呼んでいる、そんな感覚に陥ることもありました。場所に身体を置く。それだけでも、大量の情報が流れ込んでくるのが感じられる。言葉ではない、確実に身体に入ってくる何か。

場所のもつ微かな記憶が齎す感覚のようにも思え、想起されるものからさらなる調査が生まれたり、感じた違和感を追求していった先で見つかる事実があったり、訪れる都度、確実に場所や風景の見え方が変化していきました。

 

私たちは、資料として渡辺為雄さんの「みろく沢炭鉱資料館写真集」をよく参照しました。現地でなんだここは!と写真集をめくると、必ずといっていいほど、その場所の写真と文章が存在しました。辞書のようであり、また、何かしらの道筋を示してくれるようでもありました。為雄さんの執念を感じるほど凄まじく緻密に集積されたこの写真集は、ここに生きたすべてを取りこぼすまい、忘れるまい、という気迫すら漂い、ここにあったものたちを愛で、忘却から掬おうとしているようにも感じました。

 

また、この写真集は、現地で調査をすればするほど理解が進むものであるとも思いました。現地でリサーチし、様々な場所やモノや人に触れ、改めてこの資料集を眺めると、写真集にあった文章や写真が輝きを帯び、見てきた風景や聞いた言葉が、湧き出してくる。この写真集自体がどのようにまとめられ過去から今に何を繋いでいるかが、伝わってくる。「みろく沢炭鉱資料館写真集」は一つの偉大な戯曲であり、つまりは上演(プレイされること)を目指しているようでもありました。

 

 

地質に関する調査

私たちは共に「石炭は植物という命であった」という、石炭を命として見つめたいという志向を持っていました。その共通感覚を追求するために石炭そのものについても調査を進めることとし、この地域の石炭がどう分布し、どのように生成されたかについてリサーチを行いました。

石炭化石館ほるるでの展示から学んだり、常磐炭田史研究会の方にツアーをしていただく中で、「石炭の層が中に含まれている堆積層は、海に向かって、約10度傾いており、現在の海岸付近ではその2000メートルほど地下にもまだ石炭層が眠っている」ということや「白水周辺は阿武隈山地系のマグマ由来の花崗岩の岩盤と、石炭の層が含まれる堆積層との境目あたりということで、石炭が露頭しやすい環境下である」などの地質学的なお話をお聞きしました。

 

石炭そのものに関しては、「日本では湿地帯など水辺を好んで生息していたメタセコイヤという植物が主に元になった」「そのまま分解されることなく、地中に埋もれていき、地球の内部からの地熱と、上からの圧力作用によって、石炭化が進んだ」など、文献などを調べ、この地域をを形作った地下の世界を探りました。

 

 

慰霊碑に関する調査

炭鉱に関連する慰霊碑に関しても調査を進めました。リサーチチームが今回調査した慰霊碑は以下となります。お寺にある慰霊碑に関しては、住職からそれぞれ話を伺うことができ、また、常磐炭田史研究会の方にご案内いただいたり、地区に住んでいらっしゃる方に話を伺ったりしながら、場所を突き止めた慰霊碑もありました。

 

  • 下入山バス停付近 「地蔵尊と無縁之霊供養碑」
  • 瑞芳寺 「有縁無縁供養塔」「内郷坑遭難碑」「宮地区炭砿殉職者供養」
  • 小野田炭鉱 「殉職者供養塔」
  • 妙覚寺にある供養塔 「萬霊供養之塔」
  • 性源寺にある 「朝鮮人労務犠牲者之碑」(右記に関しては、寺澤、藤城で慰霊碑のある現地を調査)
  • 好間の長寿院 「殉職者供養塔」「無縁供養塔」「第三坑水災殉難者供養塔」「南無阿弥陀仏 大正11年2月16日第三斜坑殉職者供養塔」(右記に関しては江尻氏が調査)

 

この、慰霊碑についての調査は、寺澤・藤城のリサーチにおいて一つのターニングポイントとなりました。慰霊碑というモノ、そこに刻まれた文字などが目前に現れた時、石炭採掘の現場の過酷さ、命の犠牲を伴う産業であったことが、私たちの方へより実感を持って迫ってきたのです。どのような気持ちでこの慰霊碑を建てたのだろう、と想像を掻き立てられ、また、この地域でも戦争の頃には多くの外国の人たちが働いていた(そして多数の死者もいた)という、あまり語られない過去が、そっと囁くようでもありました。

それはまさに、私たちが話を伺っていた80代、90代の方達が触れてきた現実でもありました。彼らにとってそれが日常の一部であったように、ある時それが、私たちの日常になるかもしれない。これらの慰霊碑が語りかけてくることは、決して私たちとかけ離れた話ではなく、今とも繋がっているように思います。

 

リサーチ結果

  • お話を伺った方 47名:川平9名、入山24名、広畑5名、上代4名、その他5名

 

今回の調査は、主に不動山トンネルより西側に位置する白水町入山地区、および川平地区を中心に行いました。今回のリサーチでは、約47名の方にお話を伺い、そのうち「やっちき」に関しての話を15名程の方に伺うことができました。

 

リサーチ結果に入る前に、白水町という炭鉱町について再度少し触れておきたいと思います。炭鉱以前、白水町内、現在の不動山トンネルの東側では田んぼが広がり、農家が30軒ほどあり、西側は山間部で炭焼きをする農家が数軒あるくらいな長閑な場所でした。

江戸末期に、トンネルの西側に位置する弥勒沢にて石炭の露頭が見つかり、明治14年頃から炭鉱町としては早期に開発が始まりました。入山地区では明治大正は芝居小屋などもある『銀座』と呼ばれる繁華街が生まれ、その後も、白水町では小中規模含め、50近い炭鉱を擁する地域として栄えました。

しかしエネルギー産業の石油への転換と合理化により、昭和30年代頃に相次いで閉山。その後この地域で継続する大規模産業はなく、現在は小さな集落となっています。

 

炭鉱が盛んだった時期は、全国から炭鉱の仕事を求めて訳ありの人も多く流入し、荒くれ者が集まる地域ともなっていたそうです。男性の一人は「すぐ喧嘩になんだよね、で、殺し合うんだよね。何人も死人見たよ俺ここで。白水に生まれ育った人はそうでもないんだけど。平とか綴あたりでタクシーで白水行ってくれって言うと『白水ですか、白水は払い悪くてね〜』って嫌がられてね。ヨタ公ばっかりいたからね」と、切った張ったの毎日だったと語りました。

しかし荒くれ者と呼ばれるような人々も内部の人間には皆優しかったらしく、地域の中と外との意識の差は大きかったと言います。また、別の側面として、地域内外だけでなく、もともとの地主や農家と炭鉱労働者の人々との間には、親近感とともに軋轢のようなものも存在していたことも、私たちはリサーチから感じ取ることとなりました。

 

また、炭鉱労働の過酷さも、この町を形作ってきた一面です。住人のほとんどは炭鉱関連の仕事に従事する人たちであり、この町の下は穴だらけでした。みろく沢炭鉱資料館館長である渡辺為雄氏が、自宅の真下を掘り(ダイナマイトで爆破して掘る)その音を奥さんが自宅で聞いていたという体験を語ってくれたこともあります。

また、その穴(=坑内)では落盤事故や火災、トロッコのロープが切れるなどの事故も多発し、私たちが聞き取りを行った鈴木利夫氏が語ったように、坑内の仕事に10年ほど従事した経験の中でも「年中人は死んでた」そうです。「宵越しの金は持たない」という刹那的な人々の感覚は、職場環境とも結びついていたことも、何人もの仲間の死を目の当たりにしてきた鈴木氏は語ってくれました。

 

 

白水のやっちきと、その特徴

私たちが出発点とした「やっちき」に関しての岡崎マサさんの証言はこのようなものでした。

マサさんは、大正五年、内郷宮に住んでいたとき、一四歳を二八歳と偽って選炭婦となり、やがて後山(坑掘った石炭を坑外へ運ぶ役)として坑内にもぐるようになった。

内郷の白水付近には寿炭坑のほかにもいくつか小炭坑があって、坑夫たちの帰りは夜半にかかることも多く、大正八年頃から暗がりの道をたどって白水阿弥陀堂に差しかかると、十数人の坑夫たちは、阿弥陀堂の境内でひと休みし、カンテラの灯を中央にして「やっちき」を踊ることたびたびだった。マサさんも勿論踊りの輪に加わり、鉦や太鼓がなくとも歌と掛声(囃子)で踊れたので、いっしょになって踊った。

マサさんは踊り終って帰る際、後山のあるときなど、用具であるタンガラを阿弥陀堂境内に置き忘れ、夜道を戻って背負い帰ったこともあった。踊ったのは境内ばかりではなく、坑口近くの広っぱで、月の明かりを頼りに踊ったこともあった。先山(坑内の採炭夫)たちは「炭坑で事故死した人々の供養に踊るのだ。」といっていた。

(草野日出雄『赤井嶽薬師と「やっちき」考』より引用)

 

私たちが伺うことが出来たお話は、大正時代の話は無く、昭和初期〜中期の話となりますが、その聞き取りの中でも、夕方薄暗くなると、5、6人の若い男女が輪になって「やっちき」を、鉦や太鼓無しで歌い踊っていた、という証言を得ることができました。

お話くださった方々が「やっちき」を見たのは5〜10歳という子どもの時期であり、実際に踊っていたわけではなく、それが何の為に踊られたのか、というのを知っている方はいませんでしたが、仕事あがりに踊っていた炭鉱夫たちの姿は岡崎マサさんが語った風景と重なるものを感じました。

 

聞き取りでは他に、盆踊りの時に踊られたという話、新盆の時に見た、逆に新盆の時には見ていない、など、語り手によって違う「やっちき」がいくつも出現してきました。その多様なやっちき像から私たちは、白水での「やっちき」には時代による潮流もあるのではないかということ、「やっちき」という言葉が差すもの、所属コミュニティによっての認識の差もあったのではないかと推察しています。

また、語り手が皆高齢であることから、大小あれど記憶の交錯があり、話の内容は証言とするにはまだ難しいものもありますが、リサーチで集まった話の中からいくつかをピックアップしリサーチ結果として記しておきたいと思います。

 

A 若い男女の娯楽としての「やっちき」
B 閼伽井嶽の宵祭りで踊られていた「やっちき」
C お祭りなど、大きな盆踊りの場で踊られる「やっちき」
D 白水の新盆まわりと「やっちき」

 

では、その特徴を順番に追ってみることとします。

 


A 若い男女の娯楽としての「やっちき」

まずは、若者の娯楽として踊られていた、という証言を、白水
町に住む80代後半の男性2名の語りを中心に見ていきます。

 

Oさん(昭和7年生まれ)
まずは、昭和7年生まれの男性の証言です。男性はこの白水入山地区で、炭鉱の飯場頭の家に生まれ育ち、東京に就職が決まっていた折、父が倒れ、白水に留まることになり、炭鉱で人事や経理などの仕事をしていました。

 

彼は、やっちきを5歳の頃(昭和12年頃)に見たといいます。小さい頃はよく炭鉱町のチンピラを友達と一緒に追いかけて遊んでいたそうです。炭鉱町のチンピラは、山神様(炭鉱が栄えた時代には、一つの炭鉱につき一つの山神様という神様を祀り、神社などを建てていた)のお祭りの後、夕方薄暗くなると、男女5、6人で輪になって踊っていたのだと言います。その踊りが「やっちき」と呼ばれていたそうです。

 

「やっちき踊りってのがあったんですよ。誰がやっちきだなんて言ったということではないけれど、ただ、そこらへんのチンピラが、言ったのかなあ。子供だからわかんないんですよ。やっちきだなんて面白いから。すけべなこと言って、デェーってなんてやって、『ああ、子供なんかが来んでねえぞ』なんて言われて。

 

昔、あの1炭鉱で小さな小山(小規模な炭鉱)がたくさんありましたからね。4月のお祭りの夜なんかいっぱい、もう人が集まると踊りが始まるんですよ。それはエッチな歌が入ってますからね。一般には発表できないような、うん、『やっぺ、やっぺ』から始まるんですから。エッチな、もうスケベな踊りだったんですよ。なんだってことなく踊ってたんだなあ。歌詞は、なんでもいいんですよ。そこらへんの歌をくっつけて踊ってね。いま恥ずかしくて言えないですよ。この歳になっても。

 

炭鉱のお祭り。山神様。年に1回、4月にある。そのころのお祭りの時に、お祭り行って帰って来てから、(若い人たちが)友達同士で集まってそこで踊りを踊ったり。人数は多くて10人、少なくて5、6人。暗くなってから。真昼間あんな踊りは踊られないですよ。踊りは大したことないけど、言葉がね。

 

広場があって、まあるくなって。どこでって言ったら、ここはねえ。どこだっけなあ。全部変わりましたからね。炭鉱長屋あって広っぱもいっぱいありましたから、どこでおどったっけなあ、広っぱとかでやりましたね。保育園(現在ののぞみ保育園)のところ広っぱでしたから。この先に行くとね、若松さんという大きなお家があって、その向かいっ側にね、酒屋さんあったんですよ、いまでもありますけど。その庭のところ、大きな木があって、夕方になっと薄暗くなる。街灯がないんですよ。そういうところでみんなやんのね。女の人も入ってね。エッチなこと、やってましたよ。やってましたって、踊ってましたよ。盛り上がるんです。

 

それは、だいたい時代的には昭和の、俺が5歳頃だから、12、13年ごろ。それからもうだんだん終わって … 。戦後は見た覚えはないですね。私は踊った覚えもないし。

 

面白くて、その文句がね、子供ながらにね。女の人も一緒になって歌ってて、そういう時はみんなこう、誰か歌う人がいるんじゃなくてみんなでみんなで歌ったり、誰かが音頭とったり、歌うのは一人じゃなくて、みんなで。いい塩梅なんですよ。文句も。きたねえ言葉ですよ。やっちきどっこい、そう。合間合間に、
『やっちきどっこい』なんて。『俺もやだやだ 田の草取りは おまんちょまっさかさま 水鏡』そう言う文句だから、おいらも笑いながら、追っかけて。田んぼに田植えやってっと、昔の人は履かなかったんだっぺね。炭鉱に絡んだ歌だと『俺もやだやだ 選炭場の影で… 』エッチな歌だね。エッチな歌ばっかりだったけどいい歌もあったんだ。『俺は切羽で お前は選炭場で 繋ぐロープが 恋の糸』いい歌だよねえ。

 

手をこうこうして、いい塩梅なんですよ。手を上に持ってったり、下に持ってったり。やることなすこと、『おいら自由なんだ』って勘違いしてね、自由をね。そういう連中だから。

 

それは大人はあんまりやらなかった。10代後半くらいの、いわゆるチンピラと呼ばれていた、そうですね、坑夫の子供たちとか、若い人もいましたよ、炭鉱へ入って。巻き師や、トロッコの先導をしていたような若い人がやってましたよ。やっちき踊ってたのはチンピラ。チンピラって言うと怒られるけど。あんまり真面目な人はやらなかったですね。恥ずかしいもんだって、明るいところだったらほんと恥ずかしい」

 

彼は、戦後はこの踊りを踊っている人たちを見たことは無いと語りました。私たちのリサーチによると、戦後「やっちき踊り」なるものが白水町内で踊られた証言は何名からか上がっているものの、それは、上記のようなやんちゃな若者たちが空き地の木陰で踊ったその踊られ方とは趣が異なるものでした。

 

 

萩谷鐡之介さん(昭和9年生まれ)
次に、昭和9年生まれの萩谷鐡之介さんの話です。白水町入山地区にある寿炭鉱の坑長の息子として生まれ育った彼は、子供の頃に父親を亡くし、以降は場所を炭鉱住宅の一角に移り住み、その後会社勤めをし、今も白水に居住し続けています。

 

彼が「やっちき」を最初にみたのは盆踊りの時だそうです。その記憶によると、12歳ごろ(昭和21年ごろ)山神様のところでお盆になると、やっちきを踊っているのを見たと話します。内郷駅でやるような大きな盆踊りなどなかった時代、夏になると部落部落で、神社の太鼓を引っ張ってきて、若い男女が丸くなって盆踊りを踊ったそうです。夏が近づくと、お盆の時だけではなく、若い男女が遊びついでに「やっちき」を、広っぱと呼ぶ場所(山神様の境内や、空き地)で踊り、うまく仲良くなったりしたといいます。どんな踊り方をしていたかを聞くと、実際に踊りながら話してくれました。

 

「足を蹴り上げるような動き。地面を擦ってざっとあげる。そういう腰をこう(突き出す動作)とか、そういう振りもあっぺし、色々自分でこう。それに合えばいいんだよ。踊りに合えば。その歌に。女の人はもっとしゃなりしゃなりと、しなやかに踊っていた。男の人はわりと蹴っ飛ばして踊っていた。女の人はかっこよく踊るんだ。いま、90くらいの女の人だなあ。昔は盆踊りっていうのはあんまり大きな盆踊りってのはなかったから。みんな部落部落で集まって。

 

野良踊り、やっちき踊り、あとそれのね、テンポの早いのがあんだ。テンポのはやいの。忙しいの。それを早くしたやつ。やっちき踊りが野良踊りが崩れたようなやつ。だいたいステップは同じようなところだから。女の人はうまかったよお、綺麗におどるんだよなあ。しゃなりしゃなりやっからね、綺麗に見えんだ。格好はいろいろ、いろいろみんなじぶんで作ってやってたんだよ。これ丸くなってやんだよ。この人数(5、6人)で一つの踊り出来っから。」

 

5、6人で踊りながら、会話をするように男女で歌を交わしていたそう。歌詞について聞くとやはり照れ、「やだ、おれー。むかしのエッチな歌だから」と言いながらも、食いつく私たちに、覚えているこんな歌詞を伝えてくれました。

 

「『あまりゆわれもんだ この人なかで ゆわれただれかさんのナンダこの身の辛さ』とか『あんましゆわれもんだ このひと なかせ ゆわれた だれかさんの ドント身の辛さ』とか。

 

そんなの昔はねえ、若い女の人は平気でやってたんだからね。今言った、山神様の草陰でナニやってるんだかしらねえけども、そういうの平気でやってた。結構、歌、文句自分で作って、うん。んだから、話し合いしてるように、歌にしてやるわけだよ。それがやっちき踊りってもんだよ。子供が聞いててもなにか会話してるなあってかんじ。男も女も一緒になってやんだよね。まあだ恥ずかしい歌いっぱいあんだ。」

 


B 閼伽井嶽の宵祭りで踊られた「やっちき」
8月末、閼伽井嶽に大勢の人たちが集まって踊る宵祭りがあったそうです。そこへ、戦前の昭和12年と戦後の昭和26年に行ったという2名から、閼伽井嶽で「やっちき」が踊られていた話を伺うことができました。

 

渡辺為雄さん(大正15年生まれ)
みろく沢炭鉱資料館の渡辺為雄さんは、昭和12年(1937)12歳の頃、兄に連れられて、閼伽井嶽へ登ったそうです。(12歳から14歳にかけて2、3回)

 

姥捨山→十文字→鬼ヶ沢→竹ノ内→宮小学校の裏→田広原→七曲→梨畑→閼伽井嶽と長時間かけて歩いて登り、7時くらいになると踊りが始まったそうです。閼伽井嶽では、ヤッタナイ節(炭鉱節)、やっちき節、ツンドラ節、ダンチョネ節、の4つの歌と踊りがあったそうです。ダンチョネ節は、昭和19年ごろに流行った歌と踊りで、「明日はお発ちか お名残りおしやね、ながのお世話にね、なりました、ダンチョネ」といった歌詞で、戦争に召集されて別れを惜しむような哀愁漂う歌だったといい、ツンドラ節は南方のあたりから来たのではないかと言う説があるのだそうです。やっちきは、とにかく忙しい踊りで、両足を左右にかっ飛ばすようにして、主に炭鉱の人たちが威勢良く踊っていて、農家の人たちはそれをみて真似をして踊るような感じだったそうです。

 

「閼伽井嶽って言えば信仰の対象のお寺となっていたからね、みんなぞろぞろ行ってね、私も参拝させてもらったわ。仏に篤いということではなくて、ただ踊るだけだけれど、遠くまで行って踊りに興じたということは有難いことと思うねえ、あとがスーッとしたね。炭鉱の危ない坑内の事業でもって守られたんだなと思うような時もあったね。閼伽井嶽なんかに登るのは、ひっそりとしたような人ではなくて、勇ましい若者ばかり。親分肌みたいな人があっちこっちで踊っていた。日頃の言いたいこと歌の文句にして、朝まで踊ってたよ。憂さ晴らししてくるようなそんな風だったよねえ。女の人はやっぱり少ないねえ、いたとしても姐さんや男勝りな女の人くらい。足は蹴り上げて、左に2、3歩行って、片っぽ足を持ち上げて、右に2、3歩行って、上げて、真ん中行って、と、そんな風だった。あんまりやってると疲れちまうけど、かなり足はあげてたよ、水平くらいまで。膝は曲がってたなぁ、まっすぐにはしなかった、蹴っ飛ばすくらい。手は、足にあったような格好してたよ。とにかく忙しい踊りだった。」

 

「やっちき」という言葉をいつ聞いたかと伺うと、『次はやっちきでやっかー』『ダンチョネ節でやっかー』と踊りながら会話するなかに混じっていた言葉を聞いていた、と話してくださいました。

 

4つの歌と踊りは、まず歌詞を考え歌い踊り出す人がいて、それを受けて2番の歌詞を考えて、歌い踊りながら飛び入りする人がいて、3番目、4番目と、次々と人が増えていき、10人くらいで一つの踊りの輪となったのだそうです。ヤッタナイ節、やっちき節、ツンドラ節、ダンチョネ節の4つの歌はメロディやテンポは違いましたが、歌詞は全て7775調なので、歌詞の入れ替えが可能でした。歌い継がれて来た歌詞だけでなく、自作の歌詞を歌ったりもしたそうです。「歌の文句が切れっちまうと、カサーッとしちまってやり直し」といった話も。そして為雄さんは、閼伽井嶽で実際に聞いたという歌詞を二つ教えてくれました。

 

「歌の文句で 気にする奴は ノミに蹴っ飛ばされ (ドント) 死んでしまえ」

 

「歌の文句に(で) 気にする奴は 豆腐に頭ぶっつけて (ドント) 死んでしまえ」

 

ある歌の踊りが止まると輪が崩れ、また違う歌で輪が別で出来れば、そちらに人が流れ、そうやって小さな盆踊りの輪は崩れては新しい輪が生まれ、崩れては生まれ、を繰り返しながら、朝まで踊り続けたのだそうです。(やっちきの歌で盛り上がり、途中からヤッタナイ節で盛り上がり、そちらへ人が流れた、など)

 

為雄さんは、お兄さんに小遣いの10銭をもらって、ところてんを買ったり出店をのぞいたりし、夜はお堂で寝て、帰りは、赤井駅→平駅→綴駅(現内郷駅)と列車で帰ってきたといいます。その後も忘年会などでもやっちきの歌詞を耳にしたそうですが、子供たちもいる手前、あまり健全でないと思った為雄さんは、改良した歌を作りました。

 

「閼伽井嶽から 谷底見れば 兄と妹の 〇〇〇〇〇 →閼伽井嶽から 谷底見れば 文化道路がよくできた」「〇〇〇〇 3回しても 孕まぬ奴は 世間知らずの 芋泥棒→ビール3本飲んで酔わないやつは世間知らずの麦泥棒と」と、自らで作った改良後の歌詞も教えてくださいました。

 

 

鈴木利夫さんの話(昭和7年生まれ)
鈴木利夫さんは、昭和26年(1951)18歳頃から白水で炭鉱夫として働いていました。働き始めたころ、親方と先輩方が新盆回りとしてやっちきを踊っていたという話をしてくれました。またこのころ閼伽井嶽にも1回くらい行ったことがあったそうです。

 

「就職してた。『行くべ〜』なんて。やっちきを踊ってるのを見た。こっちの人らが行ったもんだから。みんな踊っから。他の地域の人たちも、それ見ながら、真似して踊ってた。やだなあ〜という感じで見ている人もいた。盛り上がるんだっぺなあ〜。仲良くなるのいっぱいいた。どこでもみんな仲良くなる。」

 


C お祭りなど、大きな盆踊りの場で踊られる「やっちき」
戦後、部落部落で踊られていた小さな盆踊りは、大勢集まって踊るような大きなものへと変わっていったそうです。白水では「広っぱ」や「広場」と呼ばれる空き地で、戦後何回か盆踊りが踊られた、という証言をいくつか伺いました。そこで「やっちき踊り」が踊られていたという話もありますので、紹介したいと思います。

 

與澤禮子さん(昭和3年生まれ)
好間で育ち、戦後に19歳で川平にお嫁に来た與澤禮子さん(現在92歳)。禮子さんは、30才頃、川平の長屋付近にあった「広場」と呼ばれたところで行われた盆踊りで「やっちき」を見たと言います。

 

「炭鉱夫さんが踊ってた。その時の踊りは、足をこうやって蹴っ飛ばしてたよ。」

 

と言って禮子さんは、座ったまま足を蹴り飛ばすような足捌きを見せてくれました。そのときの、この川平で行われた盆踊りは、長くは続かず、2回くらいで開催されなくなったと言います。その後、歌が上手だった禮子さんは、内郷駅前の回転櫓の上で音頭取りを務めるようになりました。その時には盆踊りの途中で「やっちき」のリクエストがあると、やっちきを歌ったことがあったそうです。

 

佐藤敬子さん(昭和5年生まれ)
「『やっちき踊り』は終戦後ですね。終戦後になって、踊り始まった時に蹴っ飛ばすような踊りっていうのあんだよって聞いて。じゃあ行ってみようなんて言って見てきてね。何ていう踊りかわからなくて、足をこういう風にやるんだから『蹴っ飛ばし』だよねって付けて。最初はその踊りのことを『やっちき』とは言ってなかったね。歌もね、ちょっと忙しい歌になってきたのね。女の人も大きい声出して歌うようになったからね。あららら本当に勇まし人が出てきたなって思ったのね。歌もね、変わってきました。やっちきは早いです。踊るのはお盆の時。最初は昔からの盆踊り。そのうちに音が変わってくるんです。30分くらいたつと音が変わってくるんです。『今度はやっちきだわ』って言ってるうちに忙しく変わってきて」

 

鈴木利夫さん(昭和7年生まれ)

「炭鉱のお祭りは舞台立てて、プロの役者が慰問にきて、舞台をやったんだね。最初の頃はいろんな役者が来てやってたんだけど、最後の頃は自分らで舞台作って、自分らで役者までやってたわ。盆踊り、やっちき、みんな笛吹いたり太鼓叩いたりやったんだな〜。おいらは踊る方。やっちきっちゃね、早いんだわ。やっちきどっこいどっこいな〜ってね、早いんだわ。踊ってたら疲れちまう。最初は盆踊りやるんだけど、やっちきは一番最後。」

 

戦後の炭鉱町では、人々が多く集まって踊る「盆踊り」が娯楽でもあったと話してくれた方もいました。昭和23年には、炭鉱生活を慰安するため、金坂グラウンド(現在の内郷二中校庭)での盆踊り大会が開始されたそうです。その後昭和27年、内郷の盆踊りには、有名になった回転式の櫓が取り入れられ、昭和34年には現在も続く内郷駅前に開催場所を移しました。聞き取りの中でも、盆踊りが、内郷二中でのものをはじめ、入山、川平で「広場/広っぱ」と呼ばれていた場所や、白水阿弥陀堂の前でも行われていた、とお話を伺うことができました。それぞれの盆踊りがどのように関連していたか、そして、「やっちき」との関連性はどのようなものだったのかに関しては、今後もリサーチを続けたいと思っています。

 

 


D 白水の新盆まわりと「やっちき」
「『やっちき』で新盆の家を回っていた」という話が数名の方から出てきました。しかしその一方で、「そんな話は見聞きしたことが無い、仏様の前でやっちきなんてとんでもない」という話も数名の方から同時に出てきました。本当にそのようなやっちきが存在したのかの真偽についてはここでは言及せず、ここでは、出て来たお話のいくつかの紹介と、その新盆まわりの話との関連が深いと思われる、昭和の初期〜戦後10年程の間の白水でのじゃんがらの様子はどんなものであったかも、合わせて記しておきたいと思います。

 

鈴木利夫さん(昭和7年生まれ)
「踊る人はお盆だっぺね。習わしだから。部落の。川平でも白水でもやってた。やっぱし、炭鉱で亡くなった人いっぱいいっから。じゃんがらとは別。親方がみんなを引き連れて、一軒一軒。やっちきや盆踊りを死んだ人の家に行って踊った。やっちきを踊るのは、夕方からだね。働いていた仲間、女も男も一緒に踊ってた。家の前で、歌って踊るのが供養。入った時にはやっでた。

 

道路で。櫓を建てて。内郷の駅前だってそうだっぺよ。家を回った時は、家の庭。炭鉱住宅も一軒一軒回った。歌って踊るのが供養。川平も、白水も、お盆に練り歩きをやってた。メロディーはだいたい決まってる。「常磐炭鉱働くやつは〜」ってこんな感じで。『やっちきどっこいどっこいなー』の掛け声が出来たのは、あとなんだわ。最初は無かった。あとからできた。踊りはだいたいおんなじ。そっちの方さ、櫓立てて踊るときに、その頃は盛んだった。そんときはもう『やっちきどっこい』言ってた。

 

太鼓は2人、鉦もやった。笛もやった。笛も鉦も。掛け声が無かった時。ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか。道具はじゃんがらで使う道具とおんなじ。銅の鉦。やっちきでも使ってた。鉦叩きながらまわんだ。太鼓の後を鉦はくっつかって歩いてた」

 

與澤禮子さん(昭和3年生まれ)
「やっちきで念仏踊りをやるようなときがあった。やっちきで新盆のところをまわって歩いたことがあった。新盆のところだけ、やっちきでまわっていて、普通のところは回らないけど、今年新盆だというところは、旗立ってあったから、そこをぐるーっとまわって、おどったんだよ。じゃんがらじゃなくて、やっちきを踊っていた。じゃんがらは一つしかないので、頼まなくても回って来たが、やっちきは頼んで回って来てもらっていた。頼めばやっちきも踊ってくれた。頼まなきゃ、なにもなきゃ踊んないよ。賑やかなのでやってほしいと頼むと、やってくれた。じゃんがらの人とは別の人が踊りに来てた。炭鉱で働いていた人らがやっていた。炭鉱の人以外の人がやっていたかというとわからない。炭鉱の人がいなくなってからはやらなくなったんだわね」

 

Oさん(昭和7年生まれ)
Oさんは、以前のじゃんがらは卑猥な歌詞も歌っていたと話します。「色気離れた 坊主でさえも 木魚の割れ目で 思い出す」といった文句でじゃんがらの人たちが踊っていたのを記憶していました。彼の話では、それは戦後10年くらいまでの間だったそうです。

 

萩谷鐡之介さん(昭和9年生まれ)

荻谷さんは、「じゃんがらのことも思い出あるなあ。昔はじゃんがらはフライパン叩いて、ついてったんだよお。新盆時にしかやんねえべ、じゃんがら、じゃんがら始まっと、もう、親死んだのもナニ死んだのもねえんだ。あははおほほで。」

 

と、じゃんがらがしんみりしたものではなく、笑ったりふざけたりするような雰囲気があったと話します。

 

 

佐藤敬子さん(昭和5年生まれ)
佐藤さんからは、じゃんがらの手踊り部分が一時期「蹴っ飛ばすような踊り」だったという話もありました。

 

「その踊りは、あんまり長くはやらないんですよ、そしてあとは、じゃんがらになっちゃうんですよ、新盆は。全部で10人くらいかな。3人は太鼓だから、残りの7人だね、蹴っ飛ばししながら踊りを踊ったり、鉦をやったりするのは。最初は、軽い踊り一回りくらいするのかな。ひとまわりくらい足をね、蹴ったりなんかしてやる踊りをやってきて、それから、本式のじゃんがらやるわけだから。3人くらいは太鼓でね、中で、やるわけね。グループは丸くなってやるから。そうすっと、太鼓が変わるんですよ。脇に抱えてたのが、ここ付けて、始まる。

 

昔はね、じゃんがらは割に静かだったのね。だけど、そういう人たちも歳をとっていなくなって。それで、炭鉱の人が多くなったでしょ?若い人っていうのは、炭鉱の人が多くなってきたから、炭鉱の人混じってやるようになってきたから、踊りもちょっと粗くなってきたね。あの人らは元気がいいからね。見てる方はなんとなく楽しく見ていられたね」

 

また、いわき市のじゃんがらに関する資料において、白水じゃんがら念仏の項で「念仏ヤッチキ」という言葉が出てきました。

 

いわきの『のら踊り』にふりをつけたのが念仏ヤッチキである。祐天上人がこの辺を歩きまわって仏の供養が足りなかったので説法して歩いた。南無阿弥陀仏をわかりやすく説いて歩いたのがじゃんがら念仏である。明治後半に御台墳ではすでに合掌の入った念仏であったが、それを白水、高野、宮がならった。その後、阿弥陀堂前の天理教の家へ六十枚より婿に入った人がいて、その人の念仏踊りがいいとなりその流れを組んでいる。

(昭和63年度「いわきのじゃんがら念仏調査報告書」より引用)

 

私たちは、白水じゃんがら念仏保存会の方数名にもお話を伺いましたが、この言葉を聞いたことがある方にはまだお会い出来ていません。

 

白水じゃんがら念仏保存会の現在の会長を務める大越新二さんにお話を伺うと、白水のじゃんがら念仏保存会では、気持ちを明るく盛り上げることを大事にしていて、その精神を先輩から教えられてきたことを語ってくれました。そして、白水のじゃんがら念仏保存会でかつて歌われていた歌詞を見せてくださいました。その歌詞は、以下のようなものでした。

 

白水町で踊られていた「やっちき」を考える上での参考として、載せておきます。

 


お盆てば米の飯 お汁でば茄子汁 十六ささげの よごしはどうだい
白水名物 数ある中で 阿弥陀如来と 高野山
お盆お盆と 夏盆三日 くされ彼岸は 七日ある
三十三戸の 白水檀家 供養しましょうぇ 仏様
じゃんがら念仏で 供養をすれば 地下の仏さんも うれしかろ
じゃんがら念仏は 仏さんの供養よ 何事おいても せにゃならぬ
赤井嶽より 七浜見れば 出船入り船 大漁船
たまの日曜は 親子が揃い川という字に 寝てみたい
親の意見と 霧子の雨は 次第次第に 身に沁みる
お前百まで わしゃ九十九まで 共に白髪の 生えるまで
親の意見と なすびの花は 千に一つの 無駄がない
俺と行かねが あの山かげに なだとかま持って あけび取り
上のあけびは 何見て割れる 下の松茸 見て割れる
お月様さえ 夜遊びなさる まして若い者 無理もない
向こうお山の がんけのうさぎ 親がはねれば 子もはねる
踊り踊るなら しな良く踊れ 踊る良い子は 嫁に取る
入れておくれよ かゆくてならぬ 私一人が かやの外
赤井嶽より ずんないけつ出して 七浜うめるよな くそたれる
太鼓しっかどぶで 音頭とりゃ 辛い横で 踊り子なお辛い
赤井嶽より 谷底見れば いわきぶっとぶよな 屁をたれる

(白水じゃんがら念仏保存会資料より)

 

 


 

リサーチをしてみて

リサーチさらには作品制作を経て様々なことを私たちは受け取りました。その先で、追求したい項目がいくつか出てきています。その1つが、白水町内の聞き取りの中で、数名から出てきた、白水の「やっちき」は踊る時の足捌きが「蹴る、蹴り飛ばす」という体の動きである、という点です。

 

藤城はリサーチを始める前、炭鉱町で踊られる「やっちき」というものの身体性の中に、地面の下(坑内や、あの世)との交信、穴だらけである地面の下との関わり、地面を打つといったことによる地面の下とのコミュニケーション、坑道に対してや、届かなくなってしまった人への呼び掛けのようなものがあるのではないかとの考えを持っていました。昭和7年生まれの男性が踊ってくれた踊りを真似しながら一緒に踊り、男性と一緒に地面を蹴り飛ばした時、地面の下の世界への想起が立ち上がるような感覚を覚えました。

寺澤は、上演の最後でやっちきを踊った際に、「蹴り飛ばす」という証言をしてくれた方々の顔が浮かび、「やっちき」の踊りの形としてそれ自体にたどり着けなかったことに気付きながらも、その「蹴り飛ばす」身体性を追求するということにようやくたどり着いた感覚を得たということがありました。地面を蹴り飛ばすためには、様々なことを経ないとそこに行けない、という感覚も持っています。

両名ともに、動機やタイミングで異なりながらも、「蹴り飛ばす」身体性に惹かれていることでは共鳴しています。炭鉱町、大量に地面の下、地下に穴が掘られ、大量に人が亡くなったりもした、その大地。そこで蹴り飛ばす、ということはなんなのか、どうすれば蹴り飛ばすことができるのか。「やっちき」の白水町におけるリサーチは今後も継続しながら、「蹴り飛ばす」という動作の身体性自体にもまた向き合っていきたいと思っています。

 

その「やっちき」という言葉について、岡崎マサさんの証言を残した草野日出雄さんが、同書「霊場閼伽井嶽」にて推測として分析をしています。その中で述べられている言葉は、私たちが得た課題とも関連しているように思いますので、この項の最後にその文章の一部を載せておきたいと思います。

 

「やっちき」の囃子のなかに、「ヤッチキヤッチキヤッチキナ」と、同語の続く之に関心を持ちこれを繰り返し口ずさむ過程で、 「 やっちき」は「やあ・ちき」ではないかという疑問を抱いた。古語によれば、「やあ」は「や」と同意の感動詞で「呼びかけるときに発する語」をあらわすのである。そして「ちき」は「ちぎ」の之とではないかと推測してみた。「ちぎ」とは「地祇」と書くもので、「地神」つまり地の神を指すことばである。この二つを続けると、掛け声をかけて地の神に呼び掛けるのが「やあちぎ」となるのである。之れが当を得ているとすれば、炭坑など地の神の住む地中を掘る人々が、神を畏れ、地の神を祀る形も変化し、それが踊りとなって固定するのは、間習俗からみて当然で、坑内死者の供養ということとも関連がある。古代のことばというものは現代では理解しにくいほどに深い意味を含めている。

(草野日出雄『霊場閼伽井嶽』より引用)

 

 

いかに演劇に落とし込もうとしたか

このリサーチは「やっちき」についての研究目的のリサーチでありつつも、私たちにとっては、作品制作の過程でした。人の感情や場所がもつ空気、話している方の言葉以外で感じ取れること、表情や間合い、体の動き、その背後で蠢くもの、気配、など、只中に自分たちを置き、感覚を開いて受け取り続ける。その行為自体が、作品に向かう「リサーチ」であり、制作の一部であった、と私たちは認識してします。

 

何かをリサーチするたびに、何かが立ち上がってくる。目の前で繰り広げられるものを身体で受け止め続け、その先に、出てくるもの、勝手に立ち上がっていくもの。それはイメージであったり、パフォーマンスであったり、言葉であったり、なんらかの物体であったりする。そうして立ち上がってきたものを捏ねて、紡ぎ、編み上げてゆき、1つの作品が出来上がっていくのでした。それは一方で、最初の地点で私たちの中に浮かんでいると感じていた『種』のようなものに血が通いはじめ、骨が紡がれ、やがて内臓の形が出来、次第に一つの生命が形作られていくような感覚とも言えるかもしれません。

作品について

「やっちき」が持つ生命力溢れる踊りと歌詞。それと「穴」、「石炭は太古の昔、植物であり、いのちであった」「人間が石炭になるというイメージ」、「やっちきと供養が結びついていたならば、何故結びついてしまったのか?という疑問」「いつか地層になる私たちの、生でしかない一瞬を描きたい」といった寺澤・藤城両名が共通でもっていた感覚を軸に作品制作はスタートしました。

 

かつて炭鉱で栄えたこの地域は、穴だらけで。その穴に入っていた方々の話は生々しく、『生』そのものをギュッと凝縮したようなものでした。

「やっちき」と生と死、そして震災の影響がもたらしたいろんな穴の共鳴。自分たちが石炭になる、という原初的なイメージの先で、やっちきという男女の掛け合いからのインスピレーションを受け、坑内事故で地中に埋まった女が時間をかけ石炭になり、その女を愛していた男が、石炭となった女を掘り出す、という空想の物語が発生しました。(それは、しらみずアーツキャンプの報告紙の渡辺為雄さんへのインタビューの中に掲載された、坑内で事故死した妹さんを探しに来たお兄さんの話とも共鳴していたものでした)。

さらに、娯楽でありつつも男女の出会いの場としても機能していた「やっちき」と、性愛、炭鉱の穴、産道、女陰、胎内、といった穴・生命・水といった命そのものの世界とトンネルの多い白水、地域性や舞台としての地形が絡みはじめたのです。また、地質の調査が進むと、生命としてのメタセコイアを擬人化して登場させる構想が生まれ、それは全体を包括する時間軸の物語として、描かれていくこととなります。

 

 

流れ坑夫の男と、この町で生まれ子どもの頃から炭鉱内で働いていた女。彼らは恋仲になります。そして二人は交わり、女は気がつかないうちに孕んでいた。その後、女は坑内での落盤事故でお腹に宿した胎児とともに埋まってしまいます。その埋まった胎児は母の中からするりと抜け出し、姿を変え、キツネという役で登場します。

他にも、遥か4000万年前にこの地域一帯に繁茂していた植物メタセコイア(石炭の元になった植物)のカップル、かつて栄えた炭鉱町を象徴する、まち、という少女、炭礦で父親を失い、居場所を無くした坑夫女、炭礦労働の中で働き、仲間の遺体を幾度となく運んでいた坑夫男。遠い国からやってきて、ここで働いてここで死んだであろう「三郎」と本名ではない名で呼ばれる男らが登場していきます。そして全てを仕掛け歌い太鼓を叩き鉦を鳴らす妙な3人組。彼らが影で率いる形で、ツアー型上演は構成されました。

 

役者は東京で役者や作家活動をしている6名、浜通り在住もしくは出身で震災後、演劇や音楽、様々な活動をしている5名で構成し、作者である寺澤・藤城も太鼓と鉦の役で出演しました。不思議と呼び寄せられた一人一人が、この作品と、この土地にスッと立ち始め、役を背負い、それとして在る、というあり方を発見した時、物語は勢いを増して進み始めました。彼らからもたくさんのものを受け取りながら、台本は本番直前まで書き直され続けたのです。

 

作品はそれ自体が生き物のようなものであるという感覚や、多次元的な身体性を重要視する感性などを寺澤・藤城両者は共有し、脳や感覚を繋げるような形で、共同制作は為されました。私たちは土地を巡りながら、人に話を聞きながら、大いに遊びました。

遊ぶというと不謹慎かもしれませんが、もっとも自由で崇高な行為だと私たちは思います。それは、自分たちの内側に潜りゆく作業でもありました。潜り、さらに堀り進んでいくと、ようやく表現の萌芽のような現象に行き当たる。自分たちをその場所に置き、感覚を開いていき、そこで受け取ったものたちから、日々粘土をこねるように作り続ける。すると時折稲妻のように物語はやってきて、それらが有機的に繋がっていく。

 

今でも炭鉱で栄えた場所には産業遺構として残っているものがあり、それを巡るだけでも十分にツアーとして成立しますが、俳優の身体がその場所に立つことで、見えない気配のように導き出されたものと別の物語がその身体を通して結ばれ、シーンが浮かび上がっていく。俳優の身体を経て、彼らがその場所、その物語との接点を持った瞬間から、物語は結いなおされ、さらに大きな物語へと流れ込んでいく。そのようにして、ただ巡るだけではないナニカが場所場所に発生し、そのナニカはこの作品における内臓となり、一つ一つが器官として動き始めていったのです。

 

 

また、最後に全体を眺めてみると、最初のインスピレーションとも全てが繋がりあっていて、それは、この間に起きたすべての物事が必要不可欠であるということを意味してるようにも思いました。

 

当初10月27日に予定していた上演は、台風19号が襲来したことで、延期されました。台風後は、演者とともにボランティアに向かい、泥にまみれ流れ込んだ土の重さを体に受けながら過ごし、上演の機会を待ちました。その後、2020年2月1日に上演を再設定することが決定し、年末近くになってようやく稽古を再始動出来たのでした。

 

本番2月1日。快晴。早朝から夜の帳が降りるまでの、約10時間、私たちは上演を続けました。

 

朝、いわき市役所からバスは出発し、賽の河原と呼ばれる岩場の近くの海で遊び、海の水を山まで運びあげながら時を戻し、復活の儀式を経て、炭鉱町へ。そこでは、青い服の女や「まち」と呼ばれる少女や坑夫たちが登場人物として現れ、気がつけば、観客もまた坑夫のようになっていく。何度もトンネルを通過しながら、演者と観客と風景が渾然となって穴の物語を紡ぎ、白水の町を巡る10時間の旅。

春のような日差しの中で、私たちは、こちらでもあちらでもなく、生者でも死者でもなく、地面との境もない、一つの混ざり合いとなって、どこでもない場所をうねり動いているのでした。

水は満ち、空は高く澄みわたり、岩は鳴り、山は揺らぎ、大地が唸り、大きな風のかたまりが巡る先々で動き、天からはキラキラとしたものが降り注ぎ、すべてのものたちが謳っているような時間。すでに作品は、私たちの手元にはなく、わたしたちの身体を土地の向こう側からあちら側へ、物語のあちら側からこちら側へ、風が吹き抜けていくだけでありました。

 

 


主な参考文献
内郷郷土史編さん委員会『内郷郷土史 上巻・下巻』内郷郷土史編さん委員会 (1986)
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鈴木貞夫『いわき市内郷白水における明治期の炭砿の変遷』歴史地理学会 草野日出雄『霊場閼伽井嶽』はましん企画 (1981)
草野日出雄『ヤマはふるさと〈常磐炭田物語〉』はましん企画 (1975)
草野日出雄『写真で綴る いわきの講と野仏 』 はましん企画 (1976)
草野日出雄『ドキュメント・閉山<常磐炭田の終幕>』はましん企画 (1976)
草野日出雄『写真で綴る いわきのズリ山』はましん企画 (1976)
草野日出雄『写真で綴る いわきの炭砿 常磐炭田とその変貌の記録』はましん企画 (1975)
永山亘「歴史 磐城炭礦(株)入山採炭(株)古賀好間炭礦(株) いわき市教育委員会編『いわきのじゃんがら念仏調査報告書:文化財基礎調査 昭和六三年度』  いわき市教育委員会 (1989)
酒井仁「ヤッチキ踊り考」、『潮流第三十八報』いわき地域学会 (2011)
佐々木春枝『いわきやっちき考』いわき短期大学 (1980)
斎藤伊知郎『近代いわき経済史考』 いわき短大 (1976)
正木基、石崎尚『‘文化資源’としての<炭砿>展 <ヤマ>の美術・写真・グラフィック・映画』  目黒区美術館 (2009)
大塚一二『トラジ 福島県内の朝鮮人強制連行』鈴木久後援会 (1992)
龍田光司『炭鉱に「強制連行」された朝鮮人 いわきから韓国を訪ねる』  くらしと平和を守るいわき革新懇話会 (2010)
荒川禎三『石炭志―常磐炭田史―』石炭志刊行会 (1975)
内郷老人クラブ連合会『ふるさと内郷のくらしと民話』いわき市立内郷公民館 (1983) 柳沢一郎『大地の驚異』はましん企画 (1978)
石田眞弓『故郷はるかに~常磐炭鉱の朝鮮人労働者との出会い~ 』アジア問題研究所 (1985)
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呑川泰司『光と風の流れ』いわき地域学会 (1993)
大森幹之『写真記録 1965 ~ 1999常磐炭坑』(2000)
田嶋雅巳『炭鉱美人』築地書館 (2000)
『新しいいわきの歴史』いわき地域学會出版部編集委員会 いわき地域学會出版部 (1992)
佐藤考徳『昔あったんだっち』いわき地域学會出版部 (1987)
上三坂ヤッチキ踊保存会資料『いわきやっちき踊り』( 年不詳 )
白水じゃんがら念仏保存会資料 じゃんがらの歌詞 渡邊為雄 いわき市内郷白水の里の 宝ものマップ 空からの案内 みろく沢炭鉱資料館 (2019)