調査報告 ヤッチキ概論

(報告:江尻浩二郎 PDF版はこちら

 

はじめに
盆踊りのような芸能について考えることは非常に難しい。まず文献に残っていない。変化が早い。多くは戦後の風俗浄化で改められている。通常は自分のコミュニティのことしか知らない。多分に個人的な体験である―。以上を断った上で本稿を先に進めたいと思うが、紙幅に制限もある。

 

ここではこれまでの主な文献を整理するとともに、今回新たに行った調査の中から出来るだけ広範なトピックを取りあげ、今後の諸活動に多少なりとも資することを期待したい。

 

草野日出雄氏の論考に見るヤッチキ

ヤッチキに関する文献は少ない。戦前については草野日出雄「赤井嶽薬師と『やっちき』考」がほぼ唯一の資料である。草野氏は各村落に流行していくヤッチキの分流源を赤井嶽薬師の盆踊り場であると考え、昭和五十四年から五十六年の間に多くのインタビューを行っている。

 

赤井嶽はかつて当地方最大の盆踊り場であった。明治三十六年に登ったという長瀬一矢さんから昭和二年に登った片波見勇さんまで、そこで踊られていたのはいずれも「念仏踊り」であり、ヤッチキに関する言及はない。変化が現れるのは昭和六年の草野好文さんの証言からである。

 

薬師の境内でみんなが踊ったのは念仏踊ではなく、平盆踊り(中略)であったということと、腹当て付モモヒキにハンテン姿の男十人ほどが、境内でテンポの早い踊り(やっちき踊りを指す)が踊られ、これが踊られるや、櫓踊の輪が崩れてしまったという体験である。(中略)体こなしの機敏な男たちの異様な踊りに気を奪われ、輪を崩して見とれてしまったというのがその場の印象のようなのである。(「赤井嶽薬師と『やっちき』考」)

 

 

これらの証言から草野氏は、ヤッチキが赤井嶽の盆踊り場に現れたのは昭和三年以降だと結論付けている。

 

同テキストから赤井嶽以外の証言を見てみると、大正末から昭和十年代にかけて市内の広範な地域で同様の踊りが踊られているようだ。ヤッチキという名称はなく、その多くが「ハネッコ」と呼ばれていたことも分かる。続いて市内平地区に関する岡崎正雄さんの証言を挙げておこう。

 

十七歳のとき(昭和十七年)茨城県磯原の友人に招かれ、そこの花園神社で炭坑の人達が主となって「ヤッチキ踊り」という踊りを踊っていた。歌の好きな私はその場でヤッチキの歌詞を覚えて帰った。平にはその頃、ヤッチキと呼んだ歌は無かった。昭和二十一年に平盆踊りが復活したとき、好間・内郷方面から来た若者達が「炭坑踊り」と呼んで、いまのヤッチキを踊った。しかし、平盆踊りの輪をこわすという理由で、翌年には炭坑踊りはボイコットされた。(同前)

 

この証言には重要な示唆が多い。炭砿と関連付けられていることと、それが異端とされている様子は十分留意されるべきである。

 

次に岡崎マサさん(明治三十六年生)の証言を見ておこう。

 

大正五年、内郷宮に住んでいたとき、十四歳を二十八歳と偽って選炭婦となり、やがて後山(坑内で掘った石炭を坑外へ運ぶ役)として坑内にもぐるようになった。内郷の白水付近には寿炭坑のほかにいくつか小炭坑があって、坑夫たちの帰りは夜半にかかることも多く、大正八年頃から暗がりの道をたどって白水阿弥陀堂に差しかかると、十数人の坑夫たちは、阿弥陀堂の境内でひと休みし、カンテラの灯を中央にして「やっちき」を踊ることたびたびだった。マサさんも勿論踊りの輪に加わり、鉦や太鼓がなくとも歌と掛声(囃子)で踊れたので、いっしょになって踊った。(中略)踊ったのは境内ばかりではなく、坑口近くの広っぱで、月の明かりを頼りに踊ったこともあった。先山(坑内の採炭夫)たちは「炭坑で事故死した人々の供養に踊るのだ」といっていた。(同前)

 

しらみずアーツキャンプ2019のテーマがヤッチキになった直接のきっかけは、このマサさんの証言にある。内郷白水では炭坑夫たちが供養のヤッチキを踊っていた。ヤッチキを明確に供養と関連付ける証言はこれ以外にない。さらに、いわき市教育委員会編『いわきのじゃんがら念仏調査報告書文化財基礎調査昭和六十三年度』の中の「白水のじゃんがら念仏」の項を見ると、「いわきの『のら踊り』にふりをつけたのが念仏ヤッチキである」という大変興味深い記述がある。白水地区に関する調査報告は別稿に譲るが、実はこのマサさんがもうひとつ大変重要な証言をしている。続きを引用しよう。

 

マサさんの実父佐々木伴三郎氏(万延元年生まれ、大正十五年死亡)は広島県に生まれ、青年時代に九州地方へ渡って炭坑で働くうち、礦脈を探る技術を会得し、やがて栃木県の足尾銅山に鉱山師として移った。ここで、後に(大正十四年)いわきの地で小田炭礦を経営した小田吉次氏と知り合い、小田氏と共にいわきに移り住んで、小田氏を手伝って礦脈を発見したり、「渡り坑夫」を住まわせる飯場経営もした人だった。この伴三郎氏が、大正八年頃に「やっちき踊り」を見て「九州地方の坑夫もこの踊りを踊っていた」とマサさんに聞かせている。(同前)

 

これが九州炭坑夫ルーツ説の唯一の根拠である。これを踏まえた草野氏はヤッチキについて、「大正時代に渡り坑夫によって、いわきの炭坑社会に持ちこまれ、昭和四、五年頃から赤井嶽薬師の踊り場に現われ、そこからいわきの各地に分流し、集落に定着したのは昭和十年頃だと考えられる」と結論付けている。またヤッチキという名称の普及は昭和二十年代初期とし、それまでは「ハネッコ踊り」「早踊り」「炭坑踊り」など、各地域で違った呼び名を使っていたのだろうと推測している。

 

ここまでが草野氏のテキストの主要部分であるが、ほかに文献のないことから、実際に調査されることなく、無反省に引用されるケースが多い。本稿ではこれをほんのわずかでも検証してみたいと思う。

 

佐々木伴三郎さんは九州のどこで「この踊り」を見たのか

九州の炭砿エリアは広大である。岡崎マサさんの父、佐々木伴三郎さんは九州のどこで「この踊り」を見たのだろうか。岡崎家を探し出し訪ねてみたが、現在は空家となっており、周辺で聞き込みをしたものの、親族に行きつくことはできなかった。佐々木伴三郎さんは九州で鉱山技師となり、足尾銅山を経て、小田炭砿の立ち上げに関わっている。これは古河財閥とのつながりが深いようにも思える。古河が当時(明治末)九州で経営していたのは筑豊の下山田炭砿と勝野炭砿、長崎県佐々の太田炭砿であるが、その周辺に似た踊りは見つからない。

 

最大の産炭地・筑豊ではいわゆる「炭坑節」を推している。文献調査でもそれ以外はなかなか見つからない。しかし実際に現地で聞き込みをしたところ、現在も盛んに行われている古い盆踊りがあることが分かった。新盆の家をグループで回るもので、手の振りのない踏舞である。文句は口説形式でヤッチキと異なり、内容にも似ている点はない。

 

産炭地からは外れるが、「別府ヤッチキ」は囃し言葉が「ヤッチキドッコイドッコイナ」であることからよく言及される。しかし節(メロディ)も振りもあまり似ていない。また古い文献には全く記載されておらず、その歴史が定かではない。基になったとされる古来の盆踊り「三つ拍子」は節が異なり、また「ヤッチキドッコイドッコイナ」の囃し言葉もない。地元の研究者である小玉洋美氏は「新作の民謡おどりである」としており、時代はあまり遡れないようだ。

 

別府を含む豊後、また豊前には大変豊かで多様な盆踊り文化がある。また産炭地としては、佐賀県域、長崎県域、そして熊本県域も視野に入れなければならないが、いくつかの文献にあたる程度の調査しかできていない。今後の課題である。

 

遠方とのつながり

九州以外とのつながりはないのだろうか。吉田源鵬『いいたかふんじゃん!!北海盆唄考!!』を見ると、「北海盆通り」のルーツである「ベッ〇ョ踊り」にはヤッチキと共通の文句(歌詞)が多い。ベッ〇ョとは女性器呼称の方言であり、ヤッチキではよく唄い込まれる。

 

この踊りは北海道の旧産炭地で昭和初期に熱狂的に踊られたものだが、北海道方言に「ベッ〇ョ」はないという。昨年夏、現地調査を行い、「ベッ〇ョ踊り」を継承している「三笠甚句保存会」の方々に踊りを見せていただいたが、ヤッチキとの類似点は少なかった。

 

また著者の吉田氏を訪ね直接お話を伺ったところ、節は「相馬盆唄」以外になく、つまりヤッチキと共通する文句は相馬盆唄の節にのって北海道に渡ったのだろうと思われる。

 

岩根愛氏の写真集「KIPUKA」などで有名になったが、ハワイでは日本の盆踊りが盛んである。日本中から多くの移民があり、様々な盆踊りが伝わっているが、最も人気があるのは「フクシマ音頭」と呼ばれているもので、その囃し言葉に「ベッ〇ョベッ〇ョベッ〇ョベッ〇ョ」がある。演目の別名も「ベッ〇ョ」というそうだ。しかしこれも節は「相馬盆唄」であった。

 

岐阜県郡上の「やっちく」もよく言及される。振りは「ナンバ」(右手と右足が、左手と左足が同時に前に出る身体の使い方)で非常にシンプルであり、文句は全く違うが「ヤッチクサッサ」という囃し言葉が似ている。ルーツは若狭や越前という説もあるが詳しくは分からない。現地調査を行ったが文献でも遡れない。炭砿や鉱山などの関連を調べても、郡上といわきでは人の行き来があまりないように思う。

 

「ヤッチキ」という囃し言葉

野口雨情『詩集波浮の港』に「ヤッチキ・バッタン節」(昭和四年)が収録されている。語調は七七・七七・七五で、囃し言葉は「ヤッチキバッタンショ」。作曲家・藤井清水が各地の民謡を採集していた頃のもので昭和六年に譜面を作っている。

 

広島県呉市にある藤井清水の資料館に問い合わせると、その譜面は現存せず、内容も分からないとのことであった。野口雨情は北茨城磯原の出身であり、いわきとも縁が深い。大正三年頃、入山採炭株式会社の事務員となり、現いわき市錦町の祖母の実家から湯本にある入山砿業所へ通っていた。

 

昭和十四年に吹き込まれたレコードに三島一声「ヤッチキ節」がある。西条八十作詞、松平信博作曲で、三島一声は京都生まれの民謡歌手である。囃し言葉は「ヤッチキショメショメ」であるが、節には類似点がない。「山形のヤッチキ節」ともいい、昭和八年頃の唄だという。

 

その他に江村貞一「房州やっちき節」というものもあった。平成九年、ビクターからカセットテープが発売されている。節はヤッチキと同じで、囃し言葉は「ヤッチキドッコイバッサバサ」。

 

二〇一一年の図書館レファレンス協同データベースによると、保存会代表者の証言として「昭和四十年頃から海女芸者さんたちによって踊られるようになった、元唄は福島県のみさかから伝わったもので、節回しはよく似ているが、踊りは全く違う」と返答している。「ヤッチキドッコイバッサバサ」という囃し言葉があったことは市内湯本地区周辺で聞くことがあるがそれ以上のことは分からない。

 

常磐ハワイアンセンターとの日々

昨年春から聞き取り調査を行っているが、戦後に盆踊りや縁日でヤッチキを踊ったというはっきりとした証言はとれない。やはり市内で盛んに踊られていたとすれば戦前のようだ。

 

昭和五十二年、このヤッチキに大きな転機が訪れる。当時、常磐ハワイアンセンター(現スパ・リゾート・ハワイアンズ、以下ハワイアンセンター)の営業本部長であった菊地勇氏が、観光客誘致の目玉とすべく「全国民謡民舞大交歓会」の開催を目指していた。やがて同イベントのメインテーマはヤッチキに決まり、菊地氏は市内各地に保存会を発足させる。

 

ハワイアンセンターの指導で「野卑な」所作を改める団体もあったというが、基本的にはそれぞれの地区がそれぞれの踊りを踊った。昭和五十三年二月、第一回全国民謡民舞大交歓会。同年、二代目鈴木正夫が唄う「いわきヤッチキ」がビクターレコードから発売。翌年一月、第二回全国民謡民舞大交歓会。同年八月には明治神宮で行われた「日本の祭り」という大イベントに招聘された。

 

ヤッチキ再興の舞台裏

菊地氏をはじめ、この時期の重要人物は残念ながらみな他界している。当時の様子を知る手がかりは関係者が残したわずかな著作のみである。戦後途絶えていたと思われるヤッチキはどのように復活したのであろうか。

 

昭和五十二年、全国民謡・民舞組織の代表、専門研究者など約四十人にハワイアンセンターに集まってもらい、協議の結果、五十三年に全国組織の交歓会を開催することになった。(中略)ついてはこの席で地元のものを披露して欲しいと言うことだった。炭鉱節、相馬節など二十四曲ほど取り上げたが、この程度のものでは物足りない、他にもっと良いものと言われた。また中山先生と子スズメ会の先生から「いわきには変わった踊りがあると聞いているが」という意見が出た。私も困り果てて「今は余り踊られていない、人前では踊ることもできないのです」と言って、『いわきやっちき踊り』を披露した。(菊地勇『幻の名僧徳一菩薩と私』)

 

「中山先生」というのは中山民舞団代表の中山義夫氏である。彼が「長い間求めていた踊りで、日本民謡のルーツではないか」とまで言ったため、菊地氏はさっそく聞き取り調査を開始する。

 

この踊りのあることを教えてくれた元常磐炭礦労組幹部で福島県会議員だった高萩邦男君に相談すると、元いわき市内郷高野の区長、太田康孝さんが俺の先生だと言う。太田さんに会って話を聞くと、里に代々伝わっている踊りで、神社の祭礼や地蔵講などで踊ったものだと語り、いわき市上三坂郵便局長の田子三郎氏の協力を得て、仲間を集めてくれることになった。(同前)

 

まず最初に二点訂正しておかなければならないが、この「太田康孝」は「大和田泰孝」の誤りであった。また田子三郎さんは(この時すでに定年退職されているが)役場の方であり、「上三坂郵便局長」も誤りである。ヤッチキという踊りがあることを菊地氏に教えたのは高萩氏であり、高萩氏の師匠は大和田氏であった。大和田氏は既に他界しているが、高野地区で聞き取りをしても戦後にヤッチキを踊ったという証言はない。文中「里に代々伝わっている踊りで、神社の祭礼や地蔵講などで踊ったものだ」とあるのは戦前のことのようだ。

 

この調査との前後関係は定かでないが、ハワイアンセンターでは社員有志でヤッチキを稽古し、第一回全国民謡民舞大交歓会の開会式でこれを披露した。それを見た民俗芸能研究の第一人者、本田安次氏のエッセイを読んでみよう。

 

初日の開会式の後、地元からの賛助の出しものとして、郷土独特のものをとの要望があり、この野良踊が踊られた。(中略)舞台で紹介されたのは湯本のもので、にはかのこととて、踊れる人がセンターの若い男女の従業員たちに教え十人そこそこが輪になって踊ったのであるが、同様の踊はなほ数ケ地区にあり、踊り方が夫々に異るといふ。(本田安次「磐城閼伽井嶽の耀歌」)

 

その後、本田氏の提言もあり、この踊りの調査が本格的に始まる。

 

文化庁の現地調査が八月二十二日ハワイアンセンター大ホールで行われ、正式に記録されることになりました。(中略)調査は当社の民踊班や小名浜、泉、高野、三和のグループの「やっちき踊り」を見学体得したあとビデオカメラに収録しました。(常磐興産社内報『マンスリーハイビスカス』第一〇三号)

 

 

ここで「三和」というのは合戸地区のようである。

 

踊ってもらったのは、湯本、小名浜、泉、高野の四ケ所のものであった。ずっと奥の合戸のも来てくれる筈であったが、結局見えなかったのは、稽古が不足で来かねたといふ。(中略)翌日私は、同行したいといふ会員三名と共に、センターから車を出してもらひ、古老たちにお話を聞くために現地を訪れた。(中略)先づ平の営業所に、踊を見はぐった合戸の合津洽氏の店を訪れ、なほ同店の古老一人も誘って近所の喫茶店でお話を伺った。(本田安次「磐城閼伽井嶽の耀歌」)

 

意外なことにここまで上三坂の登場がない。ではハワイアンセンターが上三坂を知ったのはいつなのだろうか。はっきりしたことは分からないが、同じ時期について、現上三坂保存会会長の田子孝雄さんの証言を挙げる。

 

東京のテレビ局から(いわき市役所)三和支所に電話があったんだよね。これはオレが受けたんだから間違いない。ヤッチキ踊りって分かっかっていう問い合わせで、唄は職場の宴席なんかで唄われてたんで知ってたんだけど、特に名前がある訳でもなくて、「ヤッチキドッコイ」なんて呼んでたんだね。それに踊りがあるってのは知らなかったんで「年寄りに訊いてみます」って言って一旦引き取って、(上三坂に)帰って訊いてみるとみんな「知ってる」って言うんだね。

 

さらに現保存会員である田子元彦さんの証言を聞いてみよう。

 

役場から親父(田子三郎さん)に要請があったんだと思うんだけど、「上三坂の唄を録音して送ってほしい」って言われたとかで、当時、学校には宿直ってあったんだけど、親父が当番の日にそれに合わせて学校に集まってね。お前録音しろって言うから録音したんだね。まっちゃん(先﨑松ヨさん)が唄うからって準備して。それが昭和五十三年の六月。送った後、何を言ってるか(言葉が)分からないということで放送局の人が何人か三坂まで来たんだよね。まっちゃんが得意になってこれはああだ、なんて解説して、そのうちみんなで踊り出しちゃってね。

 

同年九月二十一日に人気番組「11PM」がハワイアンセンターから生中継し、それに上三坂は出演しているのだが、その事前調査だったのではないかと田子元彦さんは言う。いずれにしても上三坂はこの時期からハワイアンセンターの事業に深く関わっていくことになるのであるが、その踊りの型について、当時の様子をもう一度田子元彦さんに語っていただこう。

 

(上三坂の中でも)踊りはそれぞれ違ったんだよね。今の(上三坂の)踊りは完全にまっちゃん(先﨑松ヨさん)の。親父のは違ったんだよね。腰曲げてなくてね。「男踊り」みたいな感じでかっこよかった。まっちゃんが「こうでなきゃダメだ」なんて言ってるうちに親父はひっこめちゃった。今思えばあれ(親父の踊り)も残せばよかったんだよね。

 

フリースタイルであったはずの踊りが「芸能」として整理されていくのが分かって面白い。こうしてやや後発で事業に関わった上三坂であるが、研究者たちが「そのままでいい」と助言したため、以後現在に至るまでその型をほぼ変えていない。

 

 

 

やっちきの節(メロディ)

やっちきの節はどこまで遡れるのだろうか。いわきを代表する民謡歌手、坂脇尚基氏(故人)は昭和五十年、クラウンレコードに「いわきやっつき」という唄を吹き込んでいる。囃し言葉は「ヤッツキサイサイヤッツキナ」。坂脇氏はスクーターにのって市内各地を走り回り民謡を採集した方である。これも市内のどこかで唄われていたはずであるが、残念ながら当時の膨大な取材ノートやカセットテープは、三年ほど前に親族がすべて処分してしまった。県内の資料を調べていくと。東京女子大学文学部史学科民俗調査団『奥州東白川の民俗福島県東白川郡塙町大字川上』に以下の記述がある。

 

二、三十年ほど前に相馬からとびっこ踊り(あるいは「はねっこ踊り」)が入ってからは、若者はこの踊り方になってしまった。

 

同書にはこの踊りの唄が採譜されているが、その節は上三坂のヤッチキとほぼ同じである。調査が行われた一九七〇年の二十〜三十年前となると戦前から戦後の時期にあたる。周辺を調査すると、水郡線に沿ったエリアを中心に田村郡や伊達郡のほうまで広大なハネッコ文化圏があることが分かってきた。川俣町山木屋、古殿町竹貫、鮫川村赤坂、棚倉町近津、棚倉町八槻、石川町野木沢、石川町山橋、石川町母畑、中島村川原田、矢吹町大和久、矢吹町根宿、白河市東釜子などで、野木沢、川原田、釜子では現在でも踊られている。節や振りはそれぞれ大きく異なるが、棚倉町近津の節は上三坂とほぼ同じであった。

 

塙町大字川上に話は戻るが、同地区から茨城県大津に大津街道が通っている。魚や塩の道であった。その途中に前述の岡崎正雄さんの証言に出てきた花園神社がある。正雄さんが花園神社でヤッチキという唄を聞き覚えたのは昭和十七年であり、大字川上の調査内容と時期的にも合う。神社から少し東に下れば常磐炭田地帯であり、いわき地方とはあらゆる面で関係が密である。こちらもまた文化伝播のルートとして意識しなければならないだろう。

 

茨城県にも調査を広げたところ、下舘「笠抜き踊り」の節がほぼ同じであった。現地で文献にあたると、遅くとも明治時代には流行しているという。また創始したとされる人物「馬喰の勘治」は商売柄、馬産地である福島県三春とつながりがあったようだ。県内で馬産地と言えば白河もあげなければならない。伝承レベルではあるが、ハネッコ文化圏と重ねってくるのが面白い。

 

下館「笠抜き踊り」の低い姿勢はどこかヤッチキを思わせる。いわき市内で「笠踊り」といえば四倉や赤井にいくつかあるが、これは昭和二十五年ごろから「なにか新しいものを」ということで始められたようだ。面白いのは「ジャンガラ念仏踊り」を行っている青年会の中で別グループが立ち上がっているところで、戦後にそういう機運があったことが興味深い。

 

いわきの「笠踊り」は八木節をベースにしている。群馬と栃木にまたがるこの芸能は、大正から昭和初期にかけて全国的に流行した。群馬県桐生に現在まで伝承されている「手踊り」「菅笠踊り」「唐傘踊り」「花輪踊り」などをみると、その囃し言葉は「ヤンチキドッコイショ」でありヤッチキに近い。しかし全国的な流行のきっかけとなった初代堀込源太のレコードを聴いても同様の囃し言葉は確認できない。

 

余談であるが、下館笠抜き踊りの勘治が馬喰なら、八木節の初代堀込源太は馬方であった。馬の道と芸能の伝播という視点も今後留意していきたいと思う。

 

浅川の者たち

上三坂でも古くはヤッチキとは言わずハネッコと呼んでいた。前述のように周辺には広大なハネッコ文化圏がある。各地区それぞれに違いがあるが、昭和初期に大流行したようだ。そのハネッコがどこから来たのかというとこれはよく分からない。しかしその伝播に関しては鮫川村大字赤坂西野で昭和八年生まれの女性から聞いた戦前の話がたいへん興味深い。

 

盆踊りの晩になると必ず、見たことのない男たちが五〜六人でやって来てハネッコを踊った。腰を落とし、高く飛び跳ね、急旋回して見事な踊りだった。地元の者が真似しようとしてもなかなか難しくてできない。そのうちその男たちは早々に帰ってしまう。当時盆踊りは三日間だったが三日とも来た。前かがみではち巻きをしていたので顔がよく見えなかったが笑って踊っていた。あれは浅川の者ではなかったか。

 

浅川とは隣接する浅川町のことである。実は上三坂ではハネッコにもうひとつの呼び名あった。「浅川踊り」である。このような男たちは、さらにひと山もふた山も越えた上三坂と何らかの接点があったのだろうか。赤井嶽で最初に踊ったのも十人ほどの小グループであった。戦前の小名浜大原でも特殊なグループが踊ったという。しかし残念ながら、現在の浅川町にハネッコは残っていない。

 

福島県教育委員会の資料

上三坂のヤッチキは市指定無形文化財を通り越して、いきなり県指定重要無形民俗文化財となった。その特殊な事情のためか、いわき市にはヤッチキに関する資料がほとんどない。

 

県の資料を調べてみると、県教育委員会が「福島県民謡まつり」というイベントを開催していることが分かった。昭和五十六年から平成三年まで、全十回開催されている。これは各演目を映像記録として残すことを目的としており、第二回までがNHK、それ以降は福島テレビの協力を得て本格的に撮影している。記録冊子には「ビデオテープ(βⅡ)は文化課に保管してある」と明記されていた。

 

第一回にはヤッチキと同じ節の棚倉町「近津盆踊り」が。第二回には上三坂のヤッチキが。第三回には矢吹町「根宿盆踊」のはねっこ踊りが。第四回にはこれもヤッチキと同系という川俣町「山木屋盆踊り」の飛行機踊りが。第五回には古式ゆかしいナンバだという相馬盆踊りの古型が。第九回にはいわき市大野のヤッチキが収録されている。さっそく問い合わせてみたがこれの確認が難航している。保存は現在もビデオテープ(βⅡ)のままであり、県所有の再生機材も状態がよくない。

 

今後の課題

最後に今後の課題を挙げておきたい。常磐炭砿関係者、および湯本周辺には「ヤッチキドッコイバッサバサ」という囃し言葉があるが、これについてはまだ調査に取り掛かっていない。またハワイアンセンターによる再興期の泉や高野の状況もまだ調査が不十分である。ハネッコに関しては会津のカンショ踊り、また石巻市桃生の「跳ね娘踊り」などにも調査対象を広げていくべきであろう。このような広範な分布とその多様性までを含めて「ヤッチキ」の文化的価値と考えたい。戦前の証言をとるのは非常に難しい状況であるが、今後も引き続き聞き取り調査を進めて行きたいと思う。また上三坂に関しては、今回の新たな聞き取りや古い資料の発掘を経て、実に二百を越える文句の採集をすることができた。その中には大変貴重なバレ唄も数多く含まれる。これまでに音源として残されていない文句に関しては、過日保存会員による本格的なレコーディングを行った。それを発案し全面協力をしていただいた「club SONIC iwaki」関野豊氏にこの場を借りて感謝申し上げたい。

 

 


主な参考文献
上三坂ヤッチキ踊保存会『いわきやっちき踊り資料』上三坂ヤッチキ踊保存会(年不詳)
いわき市教育委員会『いわき市の文化財』いわき市教育委員会(2017)
草野日出雄「赤井嶽薬師と『やっちき』考」『霊場・閼伽井嶽』はましん出版(1981)
小玉洋美『泉都別府の祭りと民俗』おおいたインフォメーションハウス(2016)
吉田源鵬『いいたかふんじゃん!!北海盆唄考!』文芸社(2016)
野口雨情「ヤッチキ・バッタン節」『詩集波浮の港』ビクター出版(1919)
阿部徳二郎「ふるさとは歌の心に」『広報あさひ』(昭和56年7月号)朝日町(1981)
菊地勇『よみがえる史上最高の名僧徳一菩薩』いわきふるさとづくり市民会議(1982)
菊地勇『幻の名僧徳一菩薩と私:炭礦から華麗な転身常磐ハワイ創業秘話』菊地勇(2002)
中山義夫『日本のおどり:全国代表民踊南から北から』日刊スポーツ出版社(1978)
佐々木春枝『いわきやっちき考』いわき短期大学(1980)
永山肇一「民俗伝承古代のフィーバー『いわきやっちき』」『儀礼文化』(41)儀礼文化学会(2010)
会田恵美子「やっちきはジャズの香り」『財界ふくしま』(昭和57年8月号)財界ふくしま(1982)
本田安次「アイヌ舞踊とヤッチキ踊」『民俗芸能』(63)民俗芸能友の会(1983)
本田安次「今年の民俗芸能」『民俗芸能』(63)民俗芸能友の会(1983)
本田安次「磐城赤井嶽の嬥歌」『本田安次著作集第十巻(風流Ⅰ)』錦正社(1996)
本田安次「ヤッチキ踊」『本田安次著作集第十巻(風流Ⅰ)』錦正社(1996)
本田安次他『ふるさとの芸能』毎日新聞社(1982)
懸田弘訓「上三坂の民謡とやっちき踊り」『民俗芸能』(63)民俗芸能友の会(1983)
東京女子大学史学科民俗調査団『奥州東白川の民俗福島県東白川郡塙町大字川上』東京女子大学史学科(1971)
酒井仁「ヤッチキ踊り考」『潮流第38報』いわき地域学會(2011)
日本放送協会編『日本民謡大観東北篇復刻』日本放送出版協会(1992)
日本放送協会編『日本民謡大観関東篇復刻』日本放送出版協会(1992)
日本放送協会編『日本民謡大観九州篇(北部)復刻』日本放送出版協会(1994)
櫻井恒夫『下館盆踊り今昔』櫻井恒夫(1985)
いわき市教育委員会編「いわきのじゃんがら念仏調査報告書:文化財基礎調査昭和63年度」いわき市教育委員会(1989)
太田史人「大倉の笠踊り」『潮流第30報』いわき地域学會(2001)
笠踊り50周年記念実行委員会『大倉笠踊り50年の歩み』笠踊り50周年記念実行委員会(2001)
古殿町教育委員会『古殿町の民俗芸能』古殿町教育委員会(1981)
福島県教育委員会『福島県の民謡』(第1回~第10回)福島県教育委員会(1981~1990)
常磐興産社内報「マンスリーハイビスカス」(創刊号~121号)常磐興産株式会社(1968~1980)

 

主な参考音源
三島一声『ヤッチキ節』ビクター(1934)
坂脇尚基「いわきやっつき」『いわき民謡』クラウン(1975)
鈴木正夫『いわきやっちき』ビクター(1978)
江村貞一『房州やっちき節』ビクター(1997)