霜村真康さん 廿三夜講-この場だからこそできる対話

いわき市平の街中にある廿三夜尊堂。ここは、月齢23日に、月を拝むために集まり、食べたり飲んだり語り合いながら月が昇るのを待つ「廿三夜講」を行うためにつくられたお堂です。2017年度の潮目プロジェクトでは、廿三夜講特別編としてゲストを呼んで、市内の様々な場所で「講」を行いました。そもそも廿三夜講とは何なのでしょう。プロジェクトの主催者で、堂の持ち主である菩提院の副住職・霜村真康さんに聞きました。

聞き手・構成:木田 久恵(とまり木編集部)

 

実行委員メンバーインタビュー
霜村 真康 さん
廿三夜講 この場だからこそできる対話


 

―霜村さんはいわき出身なのですか?

霜村:実家は栃木で天台宗の寺です。ただ私は四男だから跡を取るわけでもなく、そもそもお坊さんになるつもりもなく。福祉を学ぼうと大学受験しましたが、大抵の大学に断られて、唯一受け入れてくれたのが大正大学っていう、宗門の大学だったんですね。当時は教職取るのと同じようにお坊さんの資格が取れたんです。だから天台宗学の講義も取り、大学3年の時には比叡山で修行をして、ひとまずお坊さんの資格を取りました。

ところがそのときにちょうど妻と出会いました。うちの妻は妹弟がいるけど、弟が障害を持っていて後を継ぐのが難しいので「自分がやるか」って言う感じで、大正大学の浄土学専攻でお坊さんになりに来ていたんです。だから浄土宗のお坊さんになったのは妻の方が先です。姉弟子ですね。その後、自分は浄土宗の修行をやり直しました。経歴はお坊さんとしても結構イレギュラーな感じです。

―浄土宗と天台宗、全然違うのですか?

霜村:お寺の仕事自体は大体一緒です。浄土宗を開いた法然上人は、もともと天台宗のお坊さんで比叡山で勉強していますし。共通するところも多いです。いわきに来てすぐ副住職として仕事を始めました。菩提院は平でも檀家さんが多いお寺で、わりと忙しい。いわきは妻と知り合って初めて来ました。大学の先輩、後輩、友達とみんなでハワイアンズに行き、菩提院に押し掛けてびっくりされ、みたいなことをやったのが出会った年。98年かな、だいぶ昔ですね(笑)

―その頃から廿三夜尊堂のことは知っていたのですか。

霜村:知りませんでした。お付き合いを始めて、こっちのお坊さんになることが決まって、手伝いに来るようになり、その中でこの廿三夜尊堂っていう離れたところのお堂があることを知りました。

―こういうお堂があるのは浄土宗だからなのでしょうか。

霜村:浄土宗に限らず、廿三夜尊堂は全国的にあるようです。特に廿三夜講という信仰が熱心な場所だとお堂を建てようとなったみたいです。この辺りだと水戸などにも廿三夜尊があります。私の故郷の栃木でも小山駅前の片方の通りは「三夜通り」というのですが、多分それは廿三夜尊を指しているのだと思います。

 

 

廿三夜尊堂正面から

 

|廿三夜講って?

 

―ここ以外でもいわきで廿三夜講をやっている場所はあったのですか。

霜村:講の会場は、本来講員の家を順に巡る慣わしですが、平ではここと鎌田に講のためのお堂、廿三夜尊堂があります。東日本国際大学に向かっていく橋の手前に延命地蔵堂と一緒になっているお堂があって、今は九品寺さんがお勤めをしています。廿三夜講のプロジェクトの中でまち歩きをやった際には「こっちが東の三夜さま、向こうを西の三夜さまと呼ぶんだよ」と教えてもらいました。なぜか廿三夜講のプロジェクトには歴史マニアな方が集まってきて、昔はあーだったこーだったと生き生きと語る場になっています(笑)

―廿三夜講を始めるきっかけは何だったのですか。

霜村:そもそもの前提として、このお堂は毎月23日の日中に扉を開けているんです。その日は信仰している常連さん、特におばあちゃんたち多くて、お参りに来ては立ち話したり、うちの義理のお母さんとお茶を飲んだり、知り合いと待ち合わせしてそのままランチに行ったり、そんな縁日をずっとやっています。

―今もですか?

霜村:うん、今もそうです。昔から、特に1月と7月は本祭と言われていて、お参りが多いですね。そしてお正月の縁日はここで護摩も修して、お札もおわけします。そんななかで、廿三夜講というのは月待の講です。旧暦23日はいわゆる下弦の月で、真夜中12時ぐらいにようやく登ってくるので、それを拝むまでは集まっていていいよというルール。時間がたっぷりあるから長話をするのも許される。遠野物語で有名な柳田國男も「もうそんな長い話は三夜講の日にしろ」と例えに使っているそうです。今私がやっている廿三夜講は、すでに始まっていたいわき未来会議のなかで対話の場が重要だ、と話していたことがきっかけで始まりました。

―廿三夜講は話すテーマがあるのですか。

霜村:普段はテーマを特に設けないで、集まった人がそれぞれ食べものと酒と話題を持ち寄る形で開催しています。今回の潮目劇場でやったものは例外的で、事前にテーマを決めてトークイベントにしました。ゲストは結構いろんな方を呼んでいます。その中で一番大きく展開したのがカオスラウンジの黒瀬陽平さんですね。あの当時彼らは「東北で移動展のようなものをやっていきたいんだ」って言っていました。面白いネタがある地域を探してたのかな。

「じゃあまずはいわきはどう?」と岸井大輔さんが連れてきて、普段から廿三夜講に来ているメンバーで彼を囲んでいわきの歴史や風土、慣わしなどを話していたら、目を輝かせて「いわきは日本の仏教やの歴史の典型が勢ぞろいしている場所だ!」となり。それがカオスラウンジ新芸術祭につながっていきました。

―廿三夜講は最初から何か生まれることを期待しているわけではない?

霜村:なかったですね。でも、そういう場があること自体が良いことだし、そこから何かが出てきたらラッキーという感じです。ただ、モデレーターの岸井さんは、被災地であるいわきのために、という気持ちがあったでしょうね。ここで何かのアクションを起こす前提で黒瀬さんを呼んできたのだと思います。

ちなみに、今回の廿三夜講復活プロジェクト第1回のテーマ「潮目になる宿の作り方」は、そんなふうにいろんな人と関わるうちに、いわき平で必要なのは泊まる場所だよね、となったことがきっかけです。でもゲストハウスを作ろうにも一人ではできないので、じゃあ、そういうことを進める組織を作ろうっていう話になりました。その辺のことを視野に、誰かまたゲストを呼んで三夜講をやるかもしれないですね。

 

廿三夜講の様子。お堂のなかでろうそくを灯し、火鉢を囲んで場を共有する

 

|「潮目」とこれから

 

―潮目という言葉について何か感じるものはありますか。

霜村:私は未来会議でずっと「対話の場づくり」をしてきました。震災間もないころは、立場や意見が違っていると衝突が起きて話ができなかったのを、「違っていても違ったまま話をしましょう」と対話をするように場をつくって。対話が生まれると、お互いのなかに必ず変化が起きます。その変化にみんな戸惑いが多かったのですが、でも、変わること自体当たり前で、それをお互い許し合うことが、この先とっても重要と思っています。

潮目というのは、異質なものがぶつかりあい、完全に混ざり合うわけでもなく、でも両者がお互い影響しあうことで双方豊かな海になる、という話ですよね。まさにその自分がやってきた対話の象徴みたいなものだろうと思っています。

―対話の場として、廿三夜講や未来会議を開かれていますが、この二つの違いは。

霜村:両方とも対話をしましょうという軸はあるけれど、ただその先「何のための対話か、どうしていくための対話か」というところまで、場づくりするこちらで決めてしまうと、それはもう対話じゃない気がします。そこに集まった人が持ち寄ることは真実だし、そこからそれぞれが持ち帰る気付きも真実なので。

でもその「場」のチャンネル自体は多い方が面白いと思っています。両者は、集まる人の属性や雰囲気が結構違います。未来会議は、初期のころはいわきの人・双葉郡から来た人、放射能が気になる人・あまり気にならない人、原発や除染で働く人と地元の人、遠くから支援する人と地元の人、などを軸に対話していたように思います。その後「ふるさと」がテーマになったり、近ごろは「浜通り合衆国」っていうテーマになったり。

―廿三夜講はどうでしょうか。

霜村:廿三夜講はこの三夜堂という地点があるということが特徴なのかなと思います。逆に未来会議は開催場所を特に定めていないというのが特徴かと。地点(地域)にこだわることで発生する人の気持ちの分断などの障害もあるので。地点に縛られない対話が未来会議でしてきたことかも。三夜講での対話は、いままでの地域の歴史、この場所では何が起きていたのかとか、そういう地面、地点に基づいた話で広がっているような気がします。

この場所でしゃべっているからこそ、そういう話になっているのかもしれない。今回(編集注:2017年度)の潮目 では、廿三夜尊堂ではなく、いわき市内のあちこちに飛び出して廿三夜講を行っていますが、それは集まる地点をずらしたらどうなるかという実験なのかもしれないですね。

 

一つ一つ丁寧に答えてくださった霜村さん

 

プロフィール:霜村 真康(しもむら・しんこう)
1976年栃木県栃木市生まれ。 2000年大正大学社会福祉学専攻卒業。2005年〜菩提院副住職。2012年〜未来会議事務局副事務局長。廿三夜講復活プロジェクト主催者。