レポート:遠野学①遠野いろいろ入門

11月28日(火)、いわき産業創造館6Fセミナー室にて、コミュニティ・ツーリズム事業関連企画「遠野学-遠野いろいろ入門~遠野ってどんなところ?〜」が開催されました。今年度私たちは、地域資源を掘り起こし持続可能性の高いコンテンツとして蓄積していく「いわき版コミュニティ・ツーリズム」の立ち上げに挑戦しています。まずは「学ぶ」という考え方から、先日は観光家の陸奥賢さんによるセミナーを開講いたしました。今回は、より地域に根ざした実践的セミナーとして、市内各地域で盛んに行われている地域学講座と連携し、コミュニティ・ツーリズムの可能性を探ります。

「遠野学」講座は2回にわたって行われます。初回の演題は「遠野いろいろ入門 〜遠野ってどんなところ?〜」。遠野町下滝在住で、郷土史に造形の深い櫛田幸太郎さんを講師に迎え、自然や歴史、文化など、幅広いテーマで遠野を掘り下げていきます。カメラマンとしての実績もおありの櫛田さん。その多くの作品を見せていただきながら、遠野を考える基礎知識を学びました。

 

長年教壇に立たれていた櫛田さんは弁舌さわやかだ。
櫛田さんが生まれ育ったのは鮫川沿いの下滝。川を抜きに生活は語れない。
貴重な写真資料を数多くお見せいただいた。

 

櫛田さんは昭和10年生まれ。昔は年寄りが大事にされたと言います。「知りたい情報は年寄りに聞くしかなかったんですね。私が子どもの頃はテレビも新聞もなかった。たとえば天気予報ひとつにしても年寄りに訊けばピタリとあてる訳です。」

櫛田さんの家から10kmほど下流に常磐線の鉄橋があります。雲が低く立ち込めている時だけ、貨車の音が低く聞こえたとか。これは雨が降るというサイン。こういうことも年寄りが教えてくれたそうです。「今は若い人はすぐスマホで調べるけども、考えてみれば昔の年寄りはスマホだったんですね。押せばなんでも教えてくれたんです。」

 

時にユーモアを交えつつ、魅力的なエピソードをふんだんに取り入れた講義。
十三枚橋の古写真。流されても分かるように、材の一枚一枚に「十三枚橋」と書いてあった。

 

「遠野を料理するのにどこから包丁を入れるか。私は鮫川をキーにしたい。」と櫛田さん。「遠野の暮らしは川と密接な関りがあります。しかし今は人々の「川離れ」が進んでますね。子どもたちは川にどんな魚がいるのかを知らない。昔は水道もなくてね。川の水を直接使いました。距離的にも近かったですね。」

次に櫛田さんは、鮫川流域の水資源利用についていくつか具体的な例を挙げて説明されました。日鉱金属柿の沢発電所の取水口は古殿町松川仁田にあります。東北電力鮫川発電所から吐き出された水はすぐ下流の取水口に吸い込まれ、柿の沢発電所で用いたのち、またすぐ鮫川堰取水口に取り込まれてしまいます。「川はめちゃくちゃ。カラカラです。」 さらに下流には高柴ダムができ「鮎や鰻は上ってこれなくなってしまいました。四時川や入遠野川で釣っている鮎はある程度大きくなってから放流したものです。釣り堀みたいなもんですね。」

櫛田さんは正岡子規の句「草にさし/小鮎さげたり/里童」が大好きだと言います。「昔は勉強がどうこうというよりも、魚を一番取れるということが自慢でした。鰻は穴釣りするんですが、うまい人はすぐに釣れる。そして(うなぎ料理を出す)「あめや」に売りに行って小遣いにしたりしました。」

 

柿の沢発電所の取水口(古殿町松川)。これにより水量は激減する。

 

また、伝えなければいけないものとして3つほどのエピソードを挙げてくださいました。一つ目は釜戸松小屋にある如意輪観音像。天保3年(1832)建立のこの像は、供物を置く石台をずらすと「乞雨祈願成就」の文字が現れます。同地域は釜戸川があるものの慢性的な水不足に悩まされており、その状況の中で、江戸時代末期に鈴木定八が抱いた夢が用水路「鮫川堰」となります。それを生々しく物語る大変貴重な資料ですが、石を動かさなければ分からないため、地域でも次第に忘れ去られ、埋もれてしまっているそうです。

 

木舟神社(松子屋)の境内にある如意輪観音石像。
「乞雨祈願成就」の文字について説明。石台をずらさなければ見ることができない。

 

二つ目は深山田稲荷林にある「栴檀ノ馨(せんだんのかおり)」碑。深山田には、度重なる洪水に苦しむ村人のため、志願して架橋の人柱となった乙女の伝説があります。忘恩の戒めに昭和13年(1938)当時の深山田区長が中心となって建立したのがこの石碑です。櫛田さんは「私の想像ですが」と断った上で「深山田にはそのような大きな橋がありません。おそらく土砂災害について言っているのではないかと思います。そして、通りすがりの乙女が人柱になるというこの話はあまりに都合よくできていますから、おそらく悲しい物語があり、それが地域の人々の心の傷となって残ったのではないかと思います。」

 

昭和13年建立の「栴檀ノ馨」碑。既に文字が摩耗し、その判読は困難だ。

 

三つ目は入遠野の山中にある「戦没軍馬慰霊碑」です。入遠野村は馬産地として有名でした。大東亜戦争が苛烈を極めると飼育馬も軍馬として徴発され、大陸に渡り戦場の露と消えました。歩兵第八十五連隊の駄馬450頭は、終戦時200頭となっていましたが、それも終焉の地タイ国ウボンにて処理。行李隊長であった同村入定の折笠章さんは、そのたてがみの一部を持ち帰り、故郷の放牧地に埋葬して石碑を建てたのです。石碑には折笠隊長以下、26名の名が刻まれています。

 

かつて放牧地であった山中の見晴らしのよい斜面に建つ「戦没軍馬慰霊碑」。
講座終了後も多くの人に囲まれ、質問に答える櫛田さん。

その他にも龍神峡や御斎所街道など、限られた時間の中でたくさんのエピソードを紹介いただきました。今日伺った内容は、まさに本プロジェクトで残して行きたいと考えているような「地域の記憶」「土地の履歴」です。川との距離や、その暮らしの中での身体性など、私たちはどのように伝えていけばよいのでしょうか。

櫛田さんのような方は地域の大変な財産です。ぜひ櫛田さんにもツアーの案内人となっていただきたい。いつか実現したいと思います。「遠野学」第2回は、ファシリテーターに菩提院副住職の霜村真康さんをお迎えし、遠野の魅力を掘り下げるワークショップを行いたいと考えております。お楽しみに。

レポート:潮目文化アーカイブ班 江尻浩二郎