インタビュー : 会田勝康さん

 

インタビュー:会田勝康さん

 

いわき潮目文化共創都市づくり推進実行委員会の初代委員長として、プログラムの立ち上げや組織運営にあたってきたのが、会田勝康さん。会田さんは、いわき市平のJRいわき駅近くに「もりたか屋」というアートスペースを構え、さまざまな企画を行っています。ただ、ご本人の役割を伺うと、ディレクターやキュレーターではなく「コミュニケーター」。アーティストと地域のつなぎ役に徹しています。

さて、その会田さんが実行委員長として携わる「いわきまちなかアートフェスティバル玄玄天」。いわき駅前を中心に現代美術を展示する芸術祭として知られます。いわき潮目劇場でも、アーティストとの國盛麻衣佳さんを招いたプログラムを3つほど予定されていますが、まずはこの「玄玄天」について、メイン会場の「もりたか屋」について、そして「潮目」について、会田さんにじっくりをお話を伺ってきました。

 

−玄玄天について

 

Q:玄玄天、今年で4回目になりますね。そもそもきっかけは何だったんですか。

A:きっかけは2013年かな。2013年の秋か冬くらいに、県立博物館の方がこのスペースを見にきてくれたんです。そのときに、いわきの現代美術家の吉田重信さんが一緒に来て、引き合わせてくれました。そのときに、僕が「実はここで、この町で、現代美術の展覧会をやりたいんです」ということを話したところ、重信さんが、初めて会ったにも関わらず、二つ返事で「よし、やろう」と。一瞬、俺も「え?」って思ったけど、「ありがとうございます」と。そこからはもう怒濤のような日々でした。それが第1回です。

 

Q:このアートスペースもりたか屋、玄玄天にとってなくてはならない場所。どういう経緯でできたんでしょう。

A:震災が起きたときは、東京にいました。東京もすごい揺れて、首都直下とかかなと思ったら、東北だった。実家は電話全然繋がらないし、幸いにも万が一の時のためにSkypeをインストールしててっていうふうに親に言っておいたんで、それがかろうじてつながった。最初は親も「いろいろ倒れたけどこっちは大丈夫」みたいな話をしてたんです。だけど、すぐに原発がああいう状態になったのを見て、「何はともあれこっちに避難してきてくれ」と頼んで、いろんな車のガソリンを1台にかき集めて、なんとか東京までは避難して来たんです。だけど、ばあちゃんが日に日に弱っていって「帰りたい。故郷がいわきだから、ずっと育ってきたし」と。

 

Q:おばあさんにしたら結構なストレスだった。

A:そう。精神的に参っていました。でも、その間、何もすることもないし、いろいろ考えるじゃないですか。いわきの現状とか。で、いわき市の状況とか見てて、久ノ浜とか。なかなか、テレビではそんなに出てこなかったから、ネットでYouTubeとか見ていました。もりたか屋の企業理念って「生かされている恩を知り国家社会に報恩する」という理念なんですよ。それ、ずっと小学校の頃からじいちゃんに風呂に一緒に入るときに聞かされてきたんです。五右衛門風呂みたいな風呂だったんですけど、熱いお湯が出るところに背中当てられて「ここから熱いお湯が出てきて、これを相手にかけてやると、そのうち風呂全体があったかくなるだろ。それは『三方よし』と言ってな、『自分よし、お客さんよし、社会よし』それが一番、世の中にとって大切で、自分の会社はこういう理念でやってんだよ」と。それを考えたときに、ずっとこのいわきのお客さんとかに支えられてきたんだな、と。いわきというこの育った場所が、気になってしょうがない。好きだったのかもしれないということに気づいたんです。それで、東京の仕事をひとまず区切りをつけて、最低限片付けて、戻ってきました。

 

Q:それはいつですか。

A:3月27日には戻ってきてたかな。それで、家族みんなで戻ってきて、まずこういう状況だから商売というよりも、いま自分たちが持っているリソースで何かできないかと。うちは、高齢者向けの服の販売をしてたから、いわきのじいちゃん、ばあちゃんに対する知名度はすごかった。そういう方たちに情報が行き届いてないというのがわかったから、うちには宣伝カーもあったし、とにかく高齢者に対するケア、情報収集と支援物資の配布というのやろう、と。だけど、その支援物資自体が手に入らない。どうしようと思っていろいろ当たってた先で出会ったのが、いま、玄玄天を主催しているNPO法人のワンダーグラウンドだったんです。で、復旧の前の緊急対応みたいな時期のステージを、そのワングラと一緒にやってきました。

 

Q:震災の対応でワングラと出会ったんですね。

A:そこから2012年に入ったときに、もう緊急の対応は落ちた落ち着いただろうと。で、次のステージに進む時に何ができるかなぁと考えたときに、もりたか屋の2階、3階のこのスペースはずっと使われていなかったんですね。いわき駅前のこのぐらいのスペースってすごく貴重だし、ただ遊ばせておくのは、社会的にも大きな損失だと思いました。「一旦ここを全部解体して、フリーのフラットな空間を作らせてほしい」と社長に相談したら「いいよ、好きにやんな」と。そこから解体とフラットにする作業を1年半位、ほんとにひとりでチマチマやってました。

 

Q:1人で?

A:解体は1人でやってました。めっちゃきつかった(笑)天井もあったから、ひっぺがして、壁とかぶっ壊して。2013年の夏ぐらいにフラットな空間が出来上がったんです。

 

震災当時から活動を振り返って頂きました。

 

Q:壊してる時にそのスペースをどうするか、イメージはあったんですか。

A:考えていたのは、やっぱりアートでした。僕自身、アートに関わったことがなかったから、何とも言えなかったんだけど、現代美術っていうのは、なぜか頭の中にあったんです。震災当初は、Twitterやってたんですけど、それからしばらくして、SNS上で交わされる言葉が、どんどん溝が深くなっていくのを感じていました。言葉の限界みたいなものを、個人的にはずっと感じてたんです。で、言葉じゃない方法で何かを伝え合うことができるはずだと思ったんです。アートの作品だったり、言葉以外の何かで作り出される感情の交換だったり。そういうものにすごく可能性を勝手に感じたんです。いまを生きている美術家、アーティストと呼ばれる人たちの、作品を介したコミニケーションや感情のやりとりが、大事になってくるんじゃないかっていうのは思っていました。

 

Q:直感のような?

A:ぶっちゃけ、僕は、現代美術全くわからなかったし、今も勉強中です。でも、そこだけはなぜか確信を持っていて、それが必要なんだと思っていました。会う人、会う人に「ここは単なるフリースペースじゃなくて、そういう文化的な事に使えるスペースにしていきたいんだ」っていうことを話をしてたんです。その過程で出会ったのが重信さんでした。

 

Q:つまり、こういうことをしたいと言っていたら、会津若松の県立博物館の方にヒットして、その人が「紹介したい」と言って連れてきたのがいわきの現代美術家だった。

A:すごい変な話なんですけどね(笑)

 

Q:怒涛の第1回が終わり、第2回をやろうとなったのは自然な感じだったんですか。

A:自然な感じでした。2回目やりたいんですみたいな話を打ち上げの時とかにしてたと思います。3回、4回と続けてきました。

 

玄玄天のトークイベント企画の冒頭で挨拶する会田さん。

 

Q:やってきて玄玄天はどう変わってきましたか。この4年間、福島を取り巻く状況もだいぶかわったと思います。作品などの変化はどうでしょう。

A:初年度はガチガチのハードな表現がもりたか屋の入り口にありましたね。原子力マークが描かれたアルミの風船が上100個ぐらい浮いているという作品がありました。いまも、程度の差はあれ、そういうテーマの作品や表現は必ずあります。僕は、この地でやる現代美術の展覧会である以上、それに触れないと言うのはちょっと違うと思っているので、それは全然あっていいと思いますし、毎年そこは変わらないですね。毎年、何かしら原発事故にまつわる作品や、そこから着想を得た作品というのは必ずありますから。そこがソフトかハードかっていうのは人や年によって違いますけど。

 

Q:今年はどんな展覧会でしょうか。

A:今年は全体的にまとまりがある展覧会だと感じています。今年は産土(うぶすな)というのをテーマにしていて、いわきの陶芸のルーツといってもいい、前衛陶芸家の緑川宏樹さんを含め、土にまつわる作品が集まっています。これに加えて、昨年度から始まった「現代美術の系譜」というプログラムが非常に重要ですね。これが玄玄天全体に及ぼす影響がかなり大きいくなってきてきていて、そこは大変意味があることだと思っています。いま、地域アートだなんだと、いろいろなところで言われている中で、アートが何かのためのアートになっている。「地域振興のためのアート」とか「観光のためのアート」とか。その点では、玄玄天というのは、小さいなりにも少し違っていると思っています。ここは、誇りに思ってもいいのかなと思うっているのが、ちゃんと先人のやってきたことを、ミクロな美術史かもしれないけど、きちんと掘り起こして、そこからさらに更新していく、越えていくための試みをやり始めているんじゃないかなと思っています。美術とかアートって、ぽっと出てきたものではなくて、そこの社会的な背景であったり、作家が自身の生きている世界なりがあって、出てくるものだと思うんです。玄玄天では、いわきの先人たちがやってきたことをきちんと掘り起こして、学んで、そこから先を見ていこうというふうにやり始めています。それが面白いと思っているし、大事なことができている芸術祭だと思っています。そこは核としてこれからもやっていきたいです。いわきの美術史というのを踏まえながら、展覧会を構成していければいいなと思っています。

 

企画内容が年々充実している「玄玄天」で展示された作品の前で。

 

−潮目劇場×玄玄天のコラボ企画について

 

Q:今回、玄玄天では、潮目文化共創都市づくりいわきとのコラボ企画として福岡・大牟田出身のアーティスト、國盛麻衣佳さんを招いて、ワークショップやツアーを行います。國盛さんは、福岡を中心に「炭鉱と美術」をテーマに、旧産炭地における文化の再評価を研究と美術活動の両面から行っている方です。今回の「炭鉱と美術」の企画も「いわきの先人たちがやってきたことを掘り起こす」という文脈で捉えられるんじゃないですか。

A:ちょっとだけまた層が違うんですけど、そうかもしれません。いわきを語るにあたって、炭鉱の歴史って欠かすことができないですよね。むしろ、それが理由で市町村合併が行われていますから。國盛さんは、自身も大牟田という産炭地の出身で、そこでどういう表現が生まれてきたのかを研究している人です。産炭地って独特の文化ですよね。まず文化を作っていく人々の集まり方が独特じゃないですか。日本全国から労働者の方が集まってきて、生活をしていく。それって地域の文化を作る上で、当然その風土とかの影響もあると思うんだけれど、それを超えて、産炭地に共通する文化的な背景っていうのがあるんじゃないかと。國盛さんは、そういう産炭地でできる美術表現の可能性って何だろうかということをずっと研究されていた方なんですね。さらに美術表現を通して、炭鉱の時代を知らない世代に伝えていくという活動もしている。それをいわきでもやってもらいたいなと思っています。

 

Q:國盛さんはいわきに来るのは初めて?

A:初めてではないと聞いています。常磐炭鉱を調べに来たことはあるそうです。ただ、ここで何か活動をしたり、作品を残したりするのは初めてですね。

 

Q:今回はどんな企画になっているのでしょう。

A:今回は「常磐炭鉱発見隊」と銘打った内郷、湯本を中心にした炭鉱のまち歩きと、炭鉱と美術をテーマにしたトーク、そしていわきの石炭を材料に自画像を描くワークショップの3本立てです。トークなんかは結構コアな話が聞けるんじゃないかと思っています。九州には、「九州派」っていう美術活動があって、そこら辺の話もちょっと踏まえて聞けるんじゃないかなと思っています。今年は、もりたか屋の入り口に硬軟さんが岡倉天心をテーマにした作品があります。日本の近代美術のルーツで、芸大を作った人ですよね。そして2階へ行けば緑川宏樹さん。いわきの現代美術の黎明期を生きた人の作品がいま、この時代に生きている作家たちの作品とともにあります。そして、最後は九州の「九州派」にも触れつつ、炭鉱をテーマにいろいろと企画が用意されている。展覧会としてはとても面白い流れになってるんじゃないかなと思います。

 

Q:潮目文化と聞いて、どういう印象を持っていますか。

A:偉そうに文化って語れる立場ではないんですが、潮目っていう言葉自体にはすごく共感はできます。よく潮目は「豊かな漁場」と言われますが、寒流と暖流のぶつかり合いです。交わらないものが混じって何かが生まれているというような状況ですよね。調べてみると、実は潮目ってあんまり交じってなかったりするようです。寒流と暖流の潮境のところには水の塊がいっぱいあって、結局交じってるようで交じってないみたいなんですね。でも、マクロな視点で見ると、そこが潮目になっている。でも、中に入っていくと、実は全然交じってない。そういうカオスの状態っていうのが割と僕は好きです。すごく自然な状況だと思います。交じり得ないものは交じり得ないまま存在する、それが潮目のようです。すごく共感します。豊かさはすごく大事なんだけど、それ以上に、交じり得ないものが、それでも交じって共存しているんですよね。そういう潮目が、僕は好きですね。

 

聞き手:潮目文化アーカイブ班 木田 修作

 

プロフィール : 会田 勝康(あいた・かつやす)
福島県いわき市出身。震災を契機に東京からUターン。震災や原発事故、時代の潮目を前に地元いわき市で行う文化・芸術活動に可能性を感じ、実家店舗の一部を「アートスペースもりたか屋」として開放。福島県やいわき市にまつわる表現活動(現代美術の展覧会・映画上映・演劇・ダンス)に対し民営の表現の場を提供。並行して、地域の祭りの飾り制作や「お囃子会」での技の継承等にも活動の場を提供している。アートスペースもりたか屋に所属。NPO法人Wunderground理事。平商店会連合会副会長。バンド・十中八九の美術班。